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義和団の乱 ~列強の暴虐について~

      2017/04/08

義和団の乱は1900年に扶清滅洋をスローガンに掲げた内乱である。乱といっているが実際は戦争といっていいのだろう。それというのもこの乱は、中国国内の内戦から急変し、驚くべきことに最終的には中国と列強との対外戦争に変化していくからである。

◆義和団の乱の発生

反乱は太平天国の乱と同じく宗教的な結社から起こったのであるが、山東省で広まった乱はその後北京に飛び火する。彼らの目的は西洋の排斥、つまり日本の幕末で言う「攘夷」と同じものであった。

北京政府も実際は彼らを取り締まる役割でありながら彼らの活動を許容した。列強の支配を内心ニガニガしく思っており、かといっておおっぴらに行動に移すこともできない自らの非力さもあってか、心情的に彼らに同調していたからだ。

義和団の規模が大々的になるにつれ政府内の意見も変わってきた。いわく「このまま列強を北京から追い出そう」義和団の勢いにつられそのまま西太后は宣戦布告をする。

(義和団はこんな服装をしていたらしい)

余談であるが、中国は最近でもそうなのだがこのような無計画といっていいようなずさんな計画が多すぎる。実は朝鮮でも見られることなのだが勢いに乗って後先考えない行動が多い。日中戦争の上海事変なども蒋介石は勝算があったようであるが、結果は上海から首都の南京までの大敗走をすることになるのである。

◆劣勢に立たされた列強

話を戻して、この時列強諸国の北京公使館は大変なことになった。当然のことながら敵陣の真っ只中にぽつんと取り残される状況におかれたのだ。たった1000人にも満たない西洋人達は公使館を中心に周りをぐるりと包囲されこととなる。

結局この間2ヶ月ほどの篭城戦を強いられる。しかも取り囲んでいる中国軍は軽く1万を超え圧倒的な兵力差であった。しかし、不思議なことに陥落どころか犠牲者がほとんどでなかった。この包囲された間の詳細な記録を書いた本が篭城した日本人留学生によってその後出版されている。

開戦してから列強はすぐに北京の外港の天津を攻略する。距離的に最も近いロシアと日本から緊急の援軍が来着すると、連合軍すぐに北京に向けて行軍を開始する。清も意外な抵抗をみせるが、結局2ヶ月あまりの末に北京は陥落する。

(天津攻略戦の実際の写真)

◆列強の反撃と大略奪

この時、北京は戦火に見舞われることになる。西太后は早くも西安に逃亡を図るのであるが残された民衆は言葉では言い尽くせない悲劇に見舞われる。列強はドイツ公使が殺されたことと、公使館が包囲されて苦しみを受けた(そもそも北京を緊急に攻略した目的は包囲された公使館区域の開放であろう)復讐をすることとなる。それも膨大な利子付きで。

驚くべきことに列強8カ国は3日間の「城内略奪許可」を出す。つまり兵士は3日間だけなら何をしてもいいということである。まるで中世の攻城戦のようだ。緊急ということで派遣された英領インド兵はそれでも「なぜ3日しかできないのか」と理解できずにご不満のご様子である。

城内は略奪、強盗、殺人、強姦などフランス人の従軍作家いわく「人間地獄」であったそうだ。金品を奪おうと屋敷に侵入し、少しでも抵抗すれば射殺だろうし若い娘を見つければその後の運命は言わずもがなである。実際それを悔やんでか殺害以外に多くの市民の自殺者もでている。

さらに極めつけは列強各国で共同慰安所をつくったことである。慰安婦の対象としては、年齢や卑賎の区別なく多くの女性がさらわれて強制的に慰安婦にさせ られたのである。特に反乱に関わった政府の高官の娘などは姉妹そろってそのまま慰安所に連行されるなど、その残虐ぶりは枚挙に暇がない。

ちなみに各占領地区でもっとも治安がよかったのは日本占領区であり多くの中国人が避難をしに逃げ込んだらしい。また2番目はアメリカ占領区であったようだ。かといって日本人が清廉潔白であるとも信じられないし、50歩100歩といったところだろう。

(日本兵 軍規がしっかりしてそう。「極東の憲兵」と呼ばれる)

◆略奪の歴史的な被害

この略奪でアロー号事件に続き永楽大典が失われた。また貴重な本が4万冊ほど炎上する被害にあった。永楽大典は人類の宝というべき本であり、アロー号事件(第二次アヘン戦争)で円明園が燃えたのと同じくらいの文化的損失である。

はっきりいってフランスの大失態であり、このフランスの文化的損失の責任をくどいぐらい後世に伝えていくべきである。フランスはそれぐらいの犯罪を行った自覚を持ったほうがいい。

現在の「頤和園」などはこの円明園に比べたらあばら屋に過ぎず、また永楽大典の貴重なことといったらこれまた世界遺産がなくなったのと同じぐらいの損失である。中国ではこういったことが歴史上でたびたび起こるので、国宝級の文化財を保存するシステムをしっかりと構築させておくべきである。

洛陽は後漢の首都であり歴史的に常に重要な都市であったにもかかわらず、現在訪れるとその面影がまったくない。驚くばかりであるが、戦乱で荒廃した結果である。

略奪によって喪失してしまった美術品、文化品、そしてこの永楽大典を含む膨大な書籍がこの義和団の乱での最も大きな損害と言っていいだろう。

↓義和団の乱に関してのオススメの本。絶版なので図書館で借りて読んでみて下さい。

 

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