Historiai

~ヒストリアイ~

ナイル川が毎年必ず氾濫して肥沃な土を運んでくるのは何故か

投稿日:2017-12-13 更新日:

ナイル川の氾濫とヘロドトス

このブログのタイトルである「Historiai」は古代の歴史家であり歴史の父と呼ばれるヘロドトスの著書であるHistoriai(邦訳『歴史』)を由来として名付けております。そんなわけで今回はヘロドトスに敬意を払い彼の著書である『歴史』の中から興味深いエピソードを話してみたいと思います。

ヘロドトスの『歴史』といえば実は誰もが知っている有名な言葉があります。それはかの有名な「エジプトはナイルの賜物」という言葉です。彼がエジプトを訪問した際の感想を一言で書き表したものですが、これはナイル川が肥沃であり古代エジプト人の生活がナイル川によって支えられていたことを示す言葉です。


(最古の歴史家であり歴史の父と呼ばれる「ヘロドトス」)

ナイル川はなぜ肥沃かと言いますと、それは氾濫するからです。ナイル川は毎年7月中旬から徐々に増水して氾濫を起こします。氾濫といっても徐々に水かさが増していく緩やかなもので濁流が押し寄せる鉄砲水のイメージとは違います。

その後しばらくして氾濫が収まると氾濫の跡の土地には泥水である黒い土が残っており、肥料を全く使わなくても大量の小麦を収穫できるのです。小麦は通常、毎年収穫し続けると連作障害を起こして翌年は収穫できなくなるのですが、ナイル川が氾濫した地域では連作障害を心配せず毎年収穫することが出来ました。

氾濫の規模はどのくらいであったかと言うと写真をみれば一目ですが、ピラミッドのすぐ近くまで氾濫した水が押し寄せてきております。ナイル川からピラミッドまで距離にして10km近くあるので川の両岸に10kmに渡って肥沃な農業用地がベルト状に登場します。

(湖ではないです。氾濫したナイル川の水です)

この氾濫する水は通常時の川の水と違い泥水で黒い色をしていました。ですから増水後の土地には黒い色の土が残ります。古代エジプト人は自らの国をエジプトではなく「ケメト」と呼んでいましたがこれは「黒い土」という意味です。

自らの国名に黒い土と名付けたのは彼らがどれだけこの黒い土がエジプトに繁栄をもたらす宝物であるかを認識している証拠でもあります。なお、砂漠地帯の砂は「赤い土」と呼んでおりました。

さて、古代のエジプト人はこの黒い土とそれを運んでくるナイル川の氾濫の重要性を理解していたのですが、彼らには永らく謎であった疑問がありました。それは「何故ナイル川は氾濫をするのか」そして「なぜ黒い土は他の土と違い肥沃であるのか」ということでした。

一般的に川が氾濫するのは当たり前ですが雨が降るからです。これは古代のエジプト人にとっても常識でした。しかしエジプトではめったに雨は降りません。それなのに毎年同じ時期に必ず川が増水します。この不可思議な現象に対して古代エジプト人は「もしかしたらどこかで水が湧き出しているのではないのか」と考えていたそうです。

実際に彼らはナイル川の増水には神様が関与していると考えており、増水の神である「ハピ」を敬っておりました。河口から900キロ上流の地点に位置するアスワンダムでお馴染みのアスワンの近くに川が渦を巻いた渦潮になっている場所があります。

そしてこの渦を見つけた古代人はここがハピが誕生した場所でありナイル川の氾濫の原因となる泉ではないのかという結論にたどり着きます。そしてその地を聖地として崇めるようになります。

この様にナイル川がなぜ氾濫するのかその理由は長い間謎に包まれていたのです。

ナイル川が毎年氾濫する秘密

さて、長い間疑問であったこれらの謎は大航海時代にヨーロッパの好奇心旺盛な探検家が登場することによって解決します。まず最初の「なぜ毎年定期的に氾濫するのか」という疑問ですが、ナイル川の源流を探すべき上流の探検をすることで判明しました。

ナイル川の河口から3000km以上離れた上流部にハルツームという都市があります。このハルツームの近郊でナイル川は西と東の2つに大きく別れます。

この内、西側の流れは白ナイルと呼ばれナイル川の源流としても有名なヴィクトリア湖に繋がっております。そして東側の流れは青ナイルと呼ばれエチオピアのタナ湖を源流としております。

この白ナイルと青ナイルのうち、西側の白ナイル川は一年を通じて常に一定量の水量を保っているのだそうです。それとは対照的に青ナイルはエチオピア高原が雨季に入る7月になると一気に水かさが増します。そして膨大な量の泥水が青ナイルに注ぎ込み濁流となってナイル川に合流します。

つまり、ナイル川の氾濫の原因は青ナイル流域であるエチオピア一帯が雨季に入ることによって川の水位が大幅に上昇したからだったのです。

ただし、上流では濁流の様に水が押し寄せてもナイル川は数千キロに及ぶ長さがあります。その為、河口付近に到達する頃には濁流も当初の勢いを失い安定した振り幅でゆったりと徐々に氾濫をするようになります。これが規則正しい増水と氾濫のメカニズムであったわけです。

黒い土が肥沃である理由

さて、もう一つの謎である「黒い土がなぜ肥沃であるか」という疑問です。そもそもこの黒い土を産み出すエチオピア地方は実は非常に豊かな土壌の土地です。これはアフリカ大陸の他の地域と比べても非常に珍しいことなのだそうです。

では何故豊かな土壌になったのかというと、この黒い土の秘密は実は3000万年前に遡ることで説明することができます。簡単に言うと3000万年前、アフリカ大陸はエチオピア付近で大陸プレートが東西に分裂するような動きを見せます。俗に言う大地溝帯という現象です。

(赤い線にそって東西に裂けました)

その結果、この裂け目から大量のマグマが地表に噴出します。そしてエチオピア一帯は湧き出たマグマで覆われます。その後、冷えたマグマはどんどん地表に積み重なり、最終的にエチオピアは高原地帯に姿を変えます。

つまり現在のエチオピア一帯の大地は冷えた溶岩の塊である「玄武岩」に覆われています。そして、この玄武岩が雨風で風化されることで黒い土へと変貌します。

もともとマグマには多くの鉱物やミネラルが溶けていますので、風化して出来た黒い土は非常に栄養分に富んだ肥沃な大地となっているのです。

つまり黒い土とはマグマが冷えた玄武岩であり、その風化した玄武岩が黒い土となり雨季に雨で流されることによって数千km離れた下流のエジプトに肥沃な土をもたらしていたのです

ナイル川の氾濫を特集したNHKの番組があるのですが、その番組内で実際にエチオピア高原の中にある「楽園聖母村」と呼ばれる村を訪ねています。(番組名 BSプレミアム「古代文明冒険紀行 おおナイルよこの地よりいでエジプトを生かさんがために来たれるもの」)

その村では農業を行って生活しているのですが肥料を全く与えずに穀物を収穫できるのだそうです。実際、村の周辺は高原にも関わらず一面に緑の草原が広がる風光明媚な土地でした。

エチオピアは今でも雨季が到来すると雨によって黒い土が流れ出します。そして雨水による土壌の浸食が凄まじく高原から濁流となった泥水が勢いよく流れ落ちる風景が見られます。そのため住民たちは土が流れ出ない様に石などを積み重ねて土壌の流出を防ごうと必死の努力をしています。

終わりに

数千年に渡ってエジプトの民に豊作をもたらしたナイルの氾濫ですが、現在、このナイルの氾濫を見ることはできません。それはアスワンダム、アスワン・ハイダムといったダムの建設によって本来氾濫すべき水が全てダム湖であるナセル湖に注ぎ込むようになったからです。

(アスワン・ハイダム とにかくデカイ。ダムの上に道路があるぐらい)

これにより肥沃な黒い土を含んだ水は下流に届かなくなりましたが、ダムによって人々に安定した水を供給することが可能になり、砂漠の緑化にもこのダムの水は使われております。また水力発電により電気を得ることで多くの人々の暮らしを支えております。

もう往年の洪水をみることはできませんが、今でもナイル川はエジプトの人たちに大いなる恵みをもたらしているのです。

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