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~ヒストリアイ~

【アメリカ独立戦争】みんなが独立したい訳ではなかった? ~独立派と王党派の割合

投稿日:2016-07-29 更新日:

アメリカの独立戦争は、ボストン茶会事件に代表されるように、本国イギリスに対して不満をもった植民地人が自由を求めて立ち上がった、というイメージで語られることが多い。

確かにその通りであったが、それではアメリカ人の全員が全員独立に賛成していたのかというと、当たり前であるがそうではない。それでは一体実際にどれ程の人が独立を支持していたのかという事をここに書いて独立戦争時の人々の心の中を探りたいと思う。

◆ 独立派、イギリス忠誠派の割合

独立戦争時の人々の立場をおおざっぱに説明すると3つに区分することができる。1つ目は独立派、英語ではPatriots。2つ目は王党派(Loyalists)これは愛国派など色々な呼び名があるがオリジナルの呼称である「Loyalists」の翻訳が人によって違うだけである。そして3番目が中立派。どちらでもない人達である。

これらの人達の割合を説明するには当時は国勢調査などもないので当時の複数の文献から類推してみよう。

まず、第2代大統領のジョン・アダムズが独立後の1813年11月12日にジェファーソンに出した手紙にこんな記述がある

大陸会議のメンバーの構成は3分の1が独立派、3分の1が王党派、残りがその他であった。

次に英語版wikiのPatriot (American Revolution) にはこの様な記述がある。

歴史家の Robert Calhoon によると歴史家達の共通見解として独立戦争時の各勢力の割合は独立派が40~45% 王党派が15~20% 残り35~45%は中立派としている。

つまり、独立派が過半数を獲得して多数派を構成していたわけでなく、現実には少数派である3割から4割ほどの賛同しか得られていなかたという訳である。

更に、この独立派の中でも見解の相違があった。武力を用いてでも強引に独立する急進派穏健派に別れていた。穏健派は、独立といっても植民地に対する重税の是正や新大陸代表として本国の議会に代表を送るなど、本国に対する不満を解消することを目的とした人々であった。

ちなみに穏健派には南部のプランターや北部の商人など本国とビジネスにおいて密接に関連する資本家などがいた。

以上の様に整理してみると、新大陸の13自治植民地に対してイギリスの支配から根本的な変革を求め独立を志向したのは独立派の中の「急進派」だけであったのである。

つまり、独立戦争とは当時の人口の15%~20%を占める独立急進派の人々が穏健派の人々を急進派へと転向させ、独立に反対する王党派を実力行使で排除し、日和見していた中立派を否応なく巻き込んで参加させた戦いと言うことができる。

この独立戦争時の人々の心境は非常に複雑で例えば、隣あった近所の家同士が独立派・王党派でお互い銃で打ち合ったという話や家族の中で賛成か反対かに別れて・・・という出来事が頻発したらしい。

有名人で言えば、ベンジャミン・フランクリンはその著書「ベンジャミン・フランクリン、アメリカ人になる」の中でフレンチインディアン戦争をイギリス人として命がけで戦った話や、独立戦争の直前まで王党派であったが悩みぬいて最終的に独立派に転向したことなどを述べている。こういった例はベンジャミン・フランクリンだけの特別なケースではなかったようである。

実際に1775年4月ボストン郊外において最初のイギリス軍と植民地軍の間で銃火が交わることになるが、この独立戦争最初の戦いにおいても当初は独立を求めていたのではなかった。「独立だ!」と植民地人は立ち上がったのでなく、彼らはイギリス本国に対し、1963年以前に認められていた植民地の自治の回復を目指して立ち上がったのであった。

この武力衝突が次第にエスカレートしていく中で、本国との対立の激化や独立急進派の動きなどがあり、やがて中立派も日和見することを許さない独立という革命運動に発展していくのである。

ちなみに独立派は植民地内を掌握していく過程で王党派を追い落としにかかり、王党派の人々はカナダやフロリダなどの植民地外やイギリス本国や西インド諸島などに駆逐された。

また、本国への抗議運動であった武力衝突を膨大なエネルギーが必要となる独立戦争へと転換させた際にトマス=ペインが書いた小冊子「コモン・センス」が植民地人を独立の機運へと大いに掻き立てたことも重要な要素であった。この本により多くの中立派の人々が独立運動に参加していった大きな原動力となった。(逆に言えばこの本が出るまで中立派だった人も多かったわけである)

以上を見る様に独立戦争時、新大陸の植民地人はイギリス人としての意識を失っておらず、現代から見ると驚くほどイギリス本国への忠誠を残していた。ボストン茶会事件後に、本国政府が独立運動へ波及することを恐れて植民地から本国議会への代表の派遣を認めるなどの措置をしていれば、18世紀末におけるアメリカの独立は行われなかった可能性も高く(カナダの様に英連邦にとどまっていた可能性も十分あり得た)、今とは違った形のアメリカになっていた可能性も十分ありえたのだ・・・・

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