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~ヒストリアイ~

何もしないで最高権力者へ~北条義時の数奇な人生~

投稿日:2024-05-22 更新日:

鎌倉幕府初期シリーズ

こちらの記事はシリーズ物となっております。どの順番から読んでも問題ないですが「初期の北条家」は「北条義時の人生」と重複する部分があるため後に読むほうがいいかと思います。

こちらの投稿では北条義時という人物について扱います。彼が①「世間一般で思われているよりも歴史的に重要人物であり鎌倉時代において圧倒的な存在」であったこと。そして②「その義時が本人が意図してなかったにも関わらず結果的に当時の日本の最高権力者にまで上りつめてしまったという数奇な運命」を解説してみたいと思います。最初の①の話題はちょっとつまらないので楽しみたい方は最初に②から読んでみて下さい。

1️⃣ 実はもっと偉いはずの義時の地位

北条義時は高校生の日本史では「鎌倉幕府の二代目執権であり承久の乱で勝利した」と解説されることが多いですね。例えば重要な歴代執権をキーワードとセットで書けば「時政(初代)」「義時(承久の乱)」「泰時(御成敗式目)」「時宗(元寇)」「高時(最後・闘犬)」という感じになります。人によって追加で「時頼」をいれるかどうかって感じですね。

このように義時は歴代の執権の1人と捉えられることも多いのですが、義時のキーワードにあるこの「承久の乱」に勝利したことは実は思っているより凄いことなんですよね。

というのも承久の乱では朝廷から公式に朝敵として認定された宣旨が出されています。この宣旨というものは当時では死刑宣告みたいなものなんですよね。現代で例えれば裁判の判決みたいなものです。そのぐらい影響力のあるものなんですね。後鳥羽上皇にしても宣旨を出した時点で「この戦はすでに勝った」と思ったことだと思います。

しかもその宣旨の内容は「鎌倉幕府討伐」ではなく「北条義時追討」なんですよね。名指しで指名されています(笑)ある意味名誉というか公的に幕府の代表ですよね。その追討の宣旨を受けた義時が逆に京に上り朝廷軍を打ち負かしてしまうわけです。

この時代の朝廷軍を打ち破るというのが前代未聞の事態であったわけです。平氏も源氏も覇権争いをしていましたが天皇による国支配という統治システムは認めており、あくまで源平合戦もその中での権力争いだったわけです。

その朝廷軍を破って都に入り仲恭天皇に代えて後堀河天皇を新たな天皇に迎え、首謀者の後鳥羽上皇を含めて三人の上皇を配流するという完全勝利だったわけです。ですから「朝廷に勝った畏れを知らないとんでもない奴」という前代未聞かつ空前絶後のことをやってのけたのが北条義時であったわけです。この承久の乱の勝利は北条氏と北条義時の名声を超一流のブランドに高める効果をもたらしました。

そもそも北条氏は元々伊豆の小豪族であり他の有力御家人と違い旗揚げ時には地元の有力者という立場ではありませんでした。頼朝や将軍家の外戚という立場でしかなかった北条氏が鎌倉幕府内部において源氏の将軍家に代わって執権という立場で支配権を確立したのもこの承久の乱の勝利のおかげが大きいかと思います。

鎌倉時代が終わり室町幕府を開いた足利尊氏は新たに建武式目を制定しましたが、その建武式目にも鎌倉時代の重要人物として源頼朝と北条義時の二人の名前を挙げております。当時の人が評価する鎌倉時代の二大巨頭であったわけです。

そんな義時ですが現在では何故かそこまで評価が高くありません。義時のキャリアに華がないというかパッとしないというのもあるかもしれませんが、朝廷に反旗を翻したことが最大の理由だと思われます。

明治時代に入り楠木正成が天皇の忠臣として評価が非常に上がったのと同じく、事情がどうであれ朝廷に刃を向けたという逆臣の事実が義時の評価を落としてしまった原因ではないかと思います。

鎌倉幕府は頼朝が亡くなった後に30年間もの長きに渡って安定した政治システムを模索し続けました。初期の将軍独裁の親政から頼朝死後の13人による合議制、そして最終的に北条氏による執権政治が確立されました。その間に政治の主導権を握るべく権力争いが行われ多くの血が流れ、頼朝と共に平氏討伐に参加した有力な御家人一族が相次いで滅亡するなど義時の評判を悪くするような負の側面なども見られました。

そういった権力闘争の果てに義時が作り上げたこの執権政治という政治体制が最終的に鎌倉時代を通じて最後まで続いたのであれば彼が指導した政治的役割はもっと評価されてもよいのではないでしょうか。

2️⃣ 何もしなくて最高権力者へ

さて北条義時が承久の乱で朝廷を倒し時の天皇を交代させるぐらいの権力者になったことを説明しましたが、その義時の人生を振り返ると本人が望む望まないに関わらず出世していく姿を目にします。

例えば義時の武士としてのキャリアのスタートは義理の兄である頼朝が平氏追討の旗揚げをしたことから始まります。頼朝は当然自らの意思で旗揚げをしましたが義時視点でみたら「姉ちゃんの旦那が平氏討伐の旗揚げをしたので全力でサポートすることになった。だから自分も一緒に戦うことになった」という感じです。決して自分から進んで戦いに参加したわけではありませんでした。

また義時最大の武勲である承久の乱の勝利も義時が「朝廷はけしからん!」と打倒の兵を挙げたわけではありません。後鳥羽上皇が「鎌倉の北条義時を倒せ」と義時打倒の宣旨を出したのです。あくまで義時は売られた喧嘩を仕方なく買ったわけです。決して自分の意思で朝廷に戦いを仕掛けたわけではありませんでした。

もし仮に朝廷側から承久の乱を仕掛けなければ義時は史実における圧倒的な名声と権力を手にすることもなく、従って執権の地位も北条氏が世襲せずにその時々の有力な御家人が交代で執権に就任することになったかもしれません。(平氏討伐で鎌倉側が没収した平氏所領は500ヶ所、その一方で承久の乱で新規に幕府が得た所領が1500ヶ所なので承久の乱がいかに幕府の影響力(と義時の名声)を強めたかが分かるかと思います。)

そういった意味で義時の人生を一言で言えば「巻き込まれた人生」と言えるかもしれません。

偶然引き継いだ北条家

姉の政子は自らの意思で頼朝と駆け落ちをしたことで自らの運命を決めました。そして義理の兄である頼朝も自ら平氏討伐の旗揚げをして自身の運命を決めました。頼朝は配流先が伊豆以外の相模や武蔵であってもいずれ旗揚げをしたことだと思います。このように義兄や姉が自らの運命をこの手で手繰り寄せたのとは対称的に義時は場合によっては北条家を継ぐことさえなかったかもしれません。

というのも義時は時政の庶子であり本来は北条家を継ぐ立場ではありませんでした。義時は吾妻鏡において北条義時ではなく「江間小四郎義時」と書かれていることも多く「四郎」という名前から分かるように長男ではありません。本来は時政の嫡男である宗時が家督を継ぐ予定でしたので義時は北条家の分家である江馬氏、江間四郎義時を長らく名乗っておりました。

そんな中で源平合戦の最中に長男の宗時が命を落とすという非常事態が発生します。その結果、次男の義時が繰り上がりで家督を継ぐことに・・・・となるかと思いきやそうはなりませんでした。父の時政は義時ではなく愛する後妻の牧方の子であるまだ幼い政範を当主にする予定でした。ですからこのまま順調にいけば成長した政範が北条家の家督を継ぎ執権も成長した政範とその子孫が引き継いだかもしれません。

そういった状況下で牧氏の変という事件が勃発します。時政の妻である牧方の実家、牧氏が3代将軍源実朝の暗殺を謀ったのです。実朝は当時祖父である時政の家に住んでいましたが、息子の命の危険を察知した政子が急いで実朝を時政邸から義時の屋敷に移動させ身の安全を確保しました。この事件により時政は御家人の間で立場を失い鎌倉から追放されます。当然牧氏の血を引く政範も一緒に力を失うことになり結果的に北条氏の家督は義時の手に入ることになります。

この「牧氏の変」は時政と牧氏側から仕掛けられたものでした。またこの事件がなければ本来は政範が家督を継ぐ予定でしたので、義時が江間義時のままであった未来も十分にありました。というか時政が調子にのってやらかさなければ江間義時のまま一生を終えた可能性が高かったかと思います。

何もせずに褒美を貰った亀前事件

義時のこの巻き込まれた人生に関して同じ様な評価をしている方もおり、研究者の細川重男氏も著書「頼朝の武士団」の中で亀前事件をその代表例として挙げております。

事件の概要を簡単に話すと、頼朝は亀前という女性と浮気をしていました。しかし政子に密告があり浮気がバレてしまいます。キレた政子が牧宗親(義理の母の実家)に命じて亀前の屋敷を文字通り潰してしまいます(政子怖すぎです)。そしてそれを知った頼朝が自分の浮気が原因にも関わらず屋敷を潰した張本人である牧宗親を呼びつけて八つ当たりをします。

その際の頼朝の発言が「お前は政子に言われて亀前の家を壊したけどさぁ、そういう場合はまず潰す前に俺にこっそり知らせるのが筋なんじゃね~の?亀前に対する俺の面子も考えてくれよ」という時の権力者とは思えない情けない内容です。宗親は大勢の面前で頼朝に罵倒されましたので完全に面目を失います。

この話を聞いた時政は宗親が義理の父親(牧方の父)ということもあり頼朝に激怒します。そして抗議の意味も込めて地元の伊豆に帰ってしまいます。その頼朝ですが時政が伊豆に帰ったと聞き慌てます。そして急いで梶原景季に対して「義時は鎌倉にいるかちょっと屋敷を見てこい」と確認の使者として送ります。

帰ってきた景季は頼朝に「江間(義時)はいましたよ」というと頼朝は喜びます。そして夜にも関わらず義時を屋敷に連れてくるように再度景季に命じます。(景季も面倒くさ過ぎると思ったことでしょう)屋敷に来た義時に対して頼朝は褒め称えました。そして将来恩賞を与えることまで約束します。義時はただ「恐縮です」と一言述べて家に帰っていきました。義時としても突然夜中に呼び出され「お前えらい!」と褒められて恩賞を貰ったのでポカンとした感じだったのではないでしょうか。

細川氏は最後に事件の顛末を「義時はおそらく家に帰って寝ただろう」と述べています。頼朝と政子が夫婦喧嘩をして、舅の時政が怒って地元に帰り、その結果何もしてない義時が「お前はいい奴だ」と頼朝から褒められてついでに恩賞まで貰っています。

この事件は本当に義時の人生を代表するようなエピソードだと思いますが、細川氏は事件を総括して「だって義時はナンにもしてない」と述べております。何もしなくて最強ではないですが、本人が意図してない中でどんどん状況が好転しています。これが義時です。

違った未来はあったのか?

さて義時のエピソードをお話しましたが、最後に前述の細川重男氏の本の中に興味深い話があったのでそちらを紹介して最後にしたいと思います。

幕府の権力は3代将軍実朝が暗殺されて以降、承久の乱を経て政子と義時が執権として権力を握るようになります。その実朝ですが、一般的には「若くして暗殺された悲劇の将軍」「金槐和歌集の作者であり和歌の名手」という感じで語られることが多いです。この2つから「文学青年」「貴族的な武士」といったイメージで語られがちでありますが実際は違っていた可能性もあるそうです。

朝廷から官位をもらったので京都に戻るといった御家人に対して「お前官位を貰ったから京へ帰ると言ってるけどそれ幕府のことをないがしろにしてないか?」と幕府に舐めた態度をとった御家人を叱責するなど強気の発言をしているシーンなども見られますし、叔父の義時に対してもあくまで自分は将軍であり武家の棟梁である鎌倉殿として上からの立場で義時に対して話しかけております。

もし実朝が26歳で暗殺されずに50歳ぐらいまで生きて息子を複数残していたらまた別の未来、少なくとも北条氏が得宗専制をすることはなかったのではないかということを述べております。

義時の性格をみていくと彼の人生にとって幸福だった時間は頼朝の平氏討伐の旗揚げをする前の時代、または平氏追討後に鎌倉に移住して頼朝が亡くなるまでの間、頼朝の横で将軍をサポートしながら家子専一として過ごした日々が一番の幸せな時間だったのではないのかと感じます。人生って難しいですよね。

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