鎌倉幕府初期シリーズ
こちらの記事はシリーズ物となっております。どの順番から読んでも問題ないですが、重複する部分があるため「北条義時の人生」は「初期の北条家」より先に読むのをオススメします。
鎌倉時代=中国の春秋戦国時代
以前中国の春秋・戦国時代に関する本を読んだのですが、その中で作者の陳舜臣さんが戦国時代に登場する戦国四君(孟嘗君、春申君等)は現代の感覚からすると「君」と呼ばれていたり、独自に3000人もの食客を配下とするなど魅力的な人物であったことから『一見すると随分な人格者であると思うかもしれないが、実際は国家の中にあって国の影響を受けない独自の勢力、つまり現在で例えるなら暴力団や任侠集団の様な存在に近いのが実態である』と解説をしておりました。
その一例として孟嘗君がある村を通過した際の出来事を挙げているのですが、有名人であった彼を見物しに集まった村人の中の1人が孟嘗君を見て「なんでぇ、孟嘗君は凄い人だって聞いてたけど実際はチビじゃねえかぁ」と言ったのを耳にした孟嘗君が逆上し、部下に命じてその村の村人を皆殺しにしたという逸話を紹介しておりました。確かにこの話を聞く限りだと地元の名士がやるまともな行いではないですよね。
まあその後に天下を統一した漢の劉邦も挙兵するまでは闇社会とつながりを持っていただけに、そもそも当時の政権が現代の我々が想像するような礼儀正しい常識的な集団ではなく、ならずものが単に権力を握っていたに過ぎないと言えるかもしれません。
前置きが長くなりましたが、なぜそんな話をしたのかというと最近NHKで「鎌倉殿の13人」という鎌倉時代初期を扱った大河ドラマがやっていたのですが、源頼朝死後から北条氏による執権体制の確立までの歴史を見ていくとまさに規模の違いはありますがこの中国の戦国時代と同じ印象を受けたからです。
つまり鎌倉武士とは現代の我々が思い描く誇り高き武士のイメージと違いほとんどルールを守らないアウトロー、それこそアメリカの西部劇に出ていくるような悪者の無法者集団や現代で言う暴力団の様な感じだったのではないかということです。
その証拠に中世の歴史研究が専門の細川重男さんの著書を見ると鎌倉武士がいかに田舎のローカル政権であり田舎侍であったかを知ることができます。
意外とショボい鎌倉幕府
例えば頼朝が平氏打倒を掲げて初めて旗揚げした際の兵力はわずか85騎しかおりませんでした。嫁の実家であった北条氏を含めての数ですので騒乱といっても実態はその程度のイザコザであったのです。この85騎で山木攻めをしたのです。ちなみにその際の北条氏の動員数は時政や義時を含めて20~30名ぐらいです。
今でこそ幕府という名称がついている影響で鎌倉幕府を立派な組織だとつい思ってしまいますが数百年に渡って日本全土を支配していた実績と経験を持つ京の朝廷と違い源平合戦を通じて朝廷の支配が及びにくい関東というローカルな田舎の独自性と自治権を認められたのが鎌倉政権の実態です。
後白河法皇から全国に守護・地頭の設置を認めてもらうなど一応は関東だけでなく国内の武士を管理する全国的な組織ではありましたが、徳川政権の江戸幕府が日本全土を完全に掌握していたのに対して、鎌倉幕府の支配が実際に及んだのは関東地域も含めて日本全国の3割程度だと言われています。
したがって幕府の当初の仕事は支配地域内における各々の御家人等の揉め事の仲裁、つまり裁判所として訴訟を処理をすることや支配下の御家人達の監督・指導が主な仕事であり行政組織として全ノウハウがない手探り状態での船出でした。したがって行政組織としてはある意味アマチュア集団だと言えます。
そんな幕府ですが頼朝のカリスマ性によって支えられていた部分も多く頼朝が亡くなると一気に内部分裂の抗争へと発展します。頼朝の死後から承久の乱が発生するまでの20年近くの間に暴力団の抗争レベルの争いが数度発生します。
そもそも承久の乱はこの20年に続いた幕府内の内部抗争をみた後鳥羽上皇が「あいつらずっと内輪揉めしてガタガタだし今なら幕府を崩壊させられるチャンス」と思ったのがきっかけで幕府内の内部抗争と密接な関係があります。
ヤクザと変わらない当時の武士
さて暴力団の抗争レベルと言いましたが、実際に具体例を挙げてみましょう。例えば頼朝の子である2代・3代将軍の頼家と実朝は二人共暗殺されております。頼家にいたっては配流先の伊豆の修善寺で風呂に入っている際に襲撃されます。本当かどうか分かりませんが愚管抄によればその際に頼家は激しく抵抗したため、フルチンのまま金玉を握られ首を縄で羽交い締めにした状態で殺されています。まるでヤクザ映画のワンシーンみたいではないでしょうか。
その他の例を挙げれば「比企能員の変」なども結構凄いです。1203年9月に比企能員は北条時政の屋敷に呼ばれたのですが、その時点で二人の関係は少しギクシャクしておりました。ですから比企一族は能員に対して「もし時政の家に行くのであれば武装した護衛を連れていった方がいい」と提案をするのですが能員は「そんなことしたら逆に怪しまれる。単に相談事だろうから大丈夫」と護衛を伴わずに時政の家にいきます。
すると屋敷に入るなり武装した手勢によって殺され、更に返す刀で北条の手勢が比企一族の屋敷を襲いそのまま比企一族を皆殺しにしてしまいます。まあ「変」というより単なる騙し討ちですよね。
普通内乱というと反乱軍は一族郎党を含めた所領の軍勢が3000人、それに対して幕府方の討伐兵が5000人。お互いの陣営が川を挟んで向かい合って「さあいざ合戦!」みたいなイメージを持つかもしれませんが鎌倉時代はそんなスケールで話は進みません。せいぜいお互いの屋敷を襲撃して倒す倒されるといった規模です。そもそも戦国時代と違い石垣によって防備された城がない時代なので仕方がないかもしれませんが規模の小ささには驚かされます。
こうやって書いてみると暗殺とか襲撃などの用語を見る限り現代の広域指定暴力団の内部抗争を見ているようです。敵の鉄砲玉がピストルを持って組長ら幹部を襲撃して殺害したりする事件にそっくりです。
江戸時代の武士というのは戦闘力を持った武力の他に高い道徳性や倫理観を持っておりました。それこそ葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉は誇り高き武士の姿を表現した名言です。幕末にヨーロッパに派遣された遣欧使節は現地でその人格や人間性などを絶賛されております
そういった江戸時代の武士が持っていた道徳性を全て排除し純粋な戦闘力だけを抽出したのが鎌倉時代の武士といえます。ですから現在で言えば「やるかやられるか」「掟破りの勝ったもん勝ち」と言ったルールに縛られない暴力団が鎌倉武士に一番近い存在と言えます。
最後にもう一例として梶原景時事件を挙げたいと思います。鎌倉殿の13人のメンバーの1人である梶原景時ですが頼朝死後に他の合議制のメンバーによって追放の処分を受けてしまいます。ただ追放されただけならいいのですが梶原一族は追放だけでなくいずれ討伐の追手が差し向けられるだろうとして一族郎党で京を目指して逃げることを決意します。なおこの時点では景時が逃げていることは周囲に知られておりません。
逃げた景時一同が駿河国、現在の静岡市に差し掛かった際の話になるのですがたまたま地元の御家人らが西方に向かう梶原一族を見かけます。この場合「我々は地元の武士だがそなたらは何者だ?一体どこへ行くつもりだ?」と家来を遣いに出して聞くのが一般的だと思います。ですがこの時代の武士はひと味もふた味も違います。「不審なやつらだ」として西に向かって急いでいる誰か分からない武士の集団に矢を射るのです。
驚いた景時は一族郎党を引き連れて応戦します。そして双方が応戦している間に騒ぎを聞きつけた地元である駿河の武士が集まり徐々に駿河勢が有利となります。そして混戦の結果、景時ら一族の有力者は全て討ち死にしてしまいます。まあとにかく酷いです。書いてみると暴力団より酷いですよね。ほぼ山賊ですよね。これ幕府の重要な使者だったりしたらどうなるんでしょうかか・・・
景時が京へ逃亡したことを知り急遽鎌倉から三浦義村を大将とする追討軍が派遣されます。追討軍は景時が駿河で偶発的に殺されたことを知るのですが、特に地元の駿河武士が処分されるわけでもなくむしろ景時を成敗したことで褒美まで貰っています。というか討伐軍は襲われなかったのか?と心配してしまうぐらいです。まあ討伐軍は完全武装して更に規模が違ったでしょうから手出しはできなかったと思いますが・・・・
初期の幕府と武家政権の実態
以上長々と書きましたが、江戸時代を基準にすると勘違いするかもしれないけど、鎌倉時代は幕府の威光が日本全土津々浦々まで及んでいたのではなく、全国の3割程度しか支配していなかった。そして立場的にも京都の朝廷に対して関東地方における武士の優位性と事実上の自治権の承認といった感じのものであったといことです。
そして関東地方というローカルながらも史上初の武家政権であり統治のノウハウがなかったため手探りの状態で試行錯誤を繰り返しながらも政権運営が行われたということです。また武士個人も江戸時代の武士と違い道徳や倫理において甚だ劣っており、むしろ武力を背景にその辺の無法者と変わらない殺人者集団的な行いをしてたということです。
先程の細川氏の著書の中で鎌倉時代の武士を「司馬遷の史記に登場する遊侠列伝や孟嘗君列伝に登場する遊侠・任侠の徒と変わらない。また18世紀に登場するイタリアのシチリア島やアメリカのイタリアンマフィアのファミリーと同じである」と言っているのでまあ私が鎌倉時代の武士の倫理観は「暴力団と変わらない」と思うような方が沢山いるのだと思います。
ちなみに史記を執筆した司馬遷は取材で孟嘗君の土地を訪れた際に非常に治安が悪いことに驚いたのですが、その際に地元の人に「孟嘗君が食客を招いて支配していた土地だからその時代の影響が残ってる」と説明されたそうです。まあ孟嘗君がどの様な集団であったのかが良く分かるかと思います。
武士も為政者の立場として数百年の時間を経ていく内に徐々に支配者として洗練され今日の武士像の姿になっていったということですね。
【参考文献】
北条氏と鎌倉幕府 細川 重男