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~ヒストリアイ~

一枚岩ではなかった初期の北条家

投稿日:2024-04-28 更新日:

鎌倉幕府初期シリーズ

こちらの記事はシリーズ物となっております。どの順番から読んでも問題ないですが、重複する部分があるため「北条義時の人生」は「初期の北条家」より先に読むのをオススメします。

高校生の日本史の授業で幕府といえば歴代の将軍の名前を憶えるのが定番です。しかし例外があって鎌倉時代だけは歴代の将軍より執権の名前を優先して憶えます。つまり鎌倉時代では執権が実質的な将軍の役割を果たしていました。というか日本史を選択していない人は源氏将軍が断絶した以降も名目的ですが将軍がいたことを知らない人も多いのではないかと思います。

そんな実質的な将軍である執権の地位を確立したのが初代執権北条時政です。彼以降は北条一門が執権を独占します。この時代の北条氏といえば頼朝の妻となった「北条政子」その父であり外戚となった初代執権「北条時政」そして政子の弟、時政の息子、そして頼朝の義弟という立場であり北条氏の基礎を築いた「北条義時」の3名がいます。

私は長い間この3人がトロイカ体制といいますか北条一門繁栄のためにガッチリと手を結び親、姉弟で協力しあってきたと思っていました。しかし実際はこの3人の中でも権力争いというか内部抗争的なものをしており、決して一枚岩ではなかったということを知って非常に驚きました。そこで今回はこの3名をそれぞれの立場から紹介することで鎌倉時代初期の北条家の内幕を見てみたいと思います。

北条政子(本名不明・4代将軍)

まずは北条政子です。政子といいますが少なくとも政子が生きていたと当時「政子」とは呼ばれていません。政子という呼び名は朝廷が「頼朝の奥さんの名前ってなんて名前?北条時政の娘だからとりあえず時政の政に女性の子で便宜上「政子」って呼ぼう」と本人を特定するために時政の「政」の字を使って名付けた名前です。ですから実際に父の時政や弟の義時から何と呼ばれていたかは不明です。

そういった経緯があるので頼朝が政子本人をなんと呼んでいたかも分かりません。頼朝が「政子、俺と結婚してくれ!」とは絶対に言ってないのだけは確かです。生前に「尼御台所」として君臨していたのに日常で何と呼ばれていたのか名前の言及がないのはどうなのよ?と思います。

歴史書によっては政子を実朝の後の第四代将軍として扱っている書物もあります。実際に将軍であったかを認める認めないを別としても実朝死後に頼朝の妻としての「尼御台所」の立場からまだ幼い四代将軍・藤原頼経の後見人として将軍と同じ役割を演じたのは間違いないです。

政子は時政の娘ですから当然北条氏でありましたが、同じく頼朝の妻であり、頼家や実朝の母という立場でもありました。したがって北条氏より妻や母としての立場から行動することも多々ありました。そもそも頼朝と結婚した時も大反対する父時政の意向を無視して頼朝と駆け落ちしたぐらいですので結婚自体が北条氏の思惑と正反対の選択でした。

当主である父の時政の意向を完全に無視して自分の意思を優先したので当時としては珍しい意思をもった女性であったと思います。北条氏の繁栄は全ては政子と頼朝との結婚がキッカケとなりますので彼女が北条氏に繁栄をもたらしたといっても過言ではないかと思います。

政子が歴史上でもっとも有名になったのは承久の乱での大演説です。御家人らの前で鎌倉殿の妻として「お前ら鎌倉殿の御恩を忘れたか!」と演説したことで朝廷か幕府かどちらかに付き従うか悩んでいた御家人一同が一斉に幕府支持となりました。まさに尼将軍としての面目躍如です。

母としての政子は自らの血を引く子供や孫が将軍候補として御家人間の権力争いの中で次々と殺されていくのを見続けるという非常に悲しい立場でありました。実朝に命の危険性が及んでいると知り急いで実朝を父の時政邸から弟の義時邸に引き取るなどできることはありましたが、最終的には実朝も暗殺されてしまいます。それも頼家の遺児によってです。

自分と頼朝の血を引く子や孫が次々と権力闘争の駒となり殺害されていく中で唯一生き残った孫である頼家の娘だけが政子と頼朝の間の唯一の血縁者であることは政子にとってかけがえのないものであったと思います。彼女が無事に生き残ったのも女性であったことと無縁ではないでしょう。これは頼朝の子どもの中でも唯一長命だった貞暁が政子の血を引いてない庶子であった事と同じでしょうね。

政子は北条時政の娘として、源頼朝の妻として、源頼家・実朝の母として、そして北条義時の姉として非常に忙しい立場での行動を余儀なくされましたが、女性としては位人臣を極め日本史上では非常に珍しい政治的権力をもった女性となります。その一方で権力者でありながら自分の血を受け継いた血族が権力闘争の果てに次々と亡くなってしまうという私生活では恵まれてない晩年を過ごしており、色々と考えさせられる一生です。

北条義時(江間小四郎義時)

北条義時は「時政の次男」「政子の弟」「源頼朝の義弟」という立ち位置です。頼朝挙兵の際に従った数少ない最初の部下であり義理の弟ですので頼朝の親衛隊の隊長(家子専一)という立場でありました。

義時は時政から執権を譲り受けていますので北条氏の嫡流みたいな感じを受けるかもしれませんがこれは結果論です。鎌倉時代の歴史書である吾妻鏡では北条義時ではなく江間小四郎義時と書かれている場合も多く、時政が晩年に変な気を起こさなければ北条宗家とは別の北条一門の江間家の開祖となっていたはずです。その際は「鎌倉殿の義弟であり序列筆頭の家臣」などを江間家の謳い文句にしたんじゃないですかね。ちなみに四郎というのは時政の4番目の子供だからです。

時政の項でも説明していますが、時政が晩年に将軍実朝の殺害計画に関与したために義時は政子と共に父時政を仕方なく鎌倉から追放します。その結果北条宗家の後継者がいない状態になたので結果的に江間でなく北条宗家を受け継ぐ形になりました。

義時が歴史的に大人物になったのは承久の乱の影響です。承久の乱は後鳥羽上皇による倒幕運動でしたが後鳥羽上皇は決して「倒幕」の宣旨を出したのではありません。「北条義時追討」と義時を名指しで指名したのです。これは幕府内の非主流派である反義時派を味方にし、内部分裂を狙う目的もありました。

義時は直ちに迎え撃つ決意をし息子を泰時に対して「大将一人でもよいから準備ができ次第直ちに出陣せよ!」と命じます。ですから泰時はわずか18騎の手勢で鎌倉を出発しました。鎌倉時代の武士は半端ないです。なお京都につく頃には総勢19万騎まで軍勢は膨らんでいました。

承久の乱で朝廷を上回る権力を手にした幕府と名指しされた義時の名声は他を圧倒します。室町時代の建武式目においても北条義時は幕府を開いた源頼朝と共に武士の威光を高めたとして鎌倉時代を代表する人物として称賛されております。

藤原氏の「氏の長者」に該当する北条の「得宗」とは義時の別名のことであり得宗家とは義時の正当な後継者という意味です。そのぐらい義時の存在は圧倒的でした。(なぜ義時が得宗という名称で呼ばれるのかは謎なのだそうです)

頼朝旗揚げ以来、目立つこともなく常に地味な役回りを演じ続けていた義時でしたが最終的には二代執権として幕府内で圧倒的な地位を確立し、息子の泰時に執権を世襲として譲り北条独裁体制を築きます。

義時の人生を見ていると平氏を討伐し関東に武家政権を確立し小さいながらも鎌倉という街に移り住んで頼朝のそばで筆頭家人として仕えていた頃が彼にとって一番幸せな時期だったのではないかと思います。

北条時政

平氏全盛から鎌倉時代までの源平時代の中である意味北条時政が一番のラッキーマンかもしれません。伊豆の小さな豪族であった北条氏が源頼朝という源氏の御曹司を旗印として最終的には日本全国の武士を統括する鎌倉幕府の初代執権の立場にまでに登りつめたのですから尚更です。もちろん本人の立ち回りもありますが、才能以上に運に恵まれていたように感じます。

北条家は伊豆地方の有力者かと思われがちですがそうではありません。頼朝挙兵時には一族郎党含めて20名ほどのごく小規模な豪族でした。相模の三浦氏や伊豆の伊東氏の様に地元の大豪族が源氏の嫡流である頼朝を平氏打倒の神輿として担いだのではなく北条氏は単に頼朝が配流された近所に住んでいただけでした。

北条家は本来時政の嫡子である長男の北条宗時が宗家を次ぐ予定でしたが、源平合戦の最中に命を落としてしまいます(宗家というか当時は家が小さすぎたので家族です)。歴史的には時政の後は次男の四郎義時が跡取りとなるのですが、時政は跡取りとして亡くなった宗時に代わり義時を後継者にする予定はありませんでした。義時自身もそれを理解していたので江間義時と名乗っておりましたし本人もそのつもりでした。

当主である時政は頼朝と共に行動することで北条氏を大きく飛躍させることには成功させるのですが、結構自分のワガママを優先させることも多く最終的にはそれが原因で北条家から追放されます。

時政は後妻であり大好きな牧方との間の子である政範に家を継がせる予定でありました。しかしその後妻である牧方の実家が権力に色気を出し、政子の息子でもある三代将軍実朝を殺害し新将軍を据える謀反を計画します。この謀反の情報が事前に政子&義時に漏れたために相手側に先手を打たれてしまい時政は権力の座から追われてしまいます。家族内最大の争いですね。

時政が争った相手は息子と娘だったので流石に処刑されることはなく出自である伊豆の北条に追放されます。最終的に彼の地に出戻りましたがやはり旗揚げ前の地位を考えると一時的には執権という要職に付き全国の御家人を指導する立場でありましたので出来すぎな人生であったと思います。頼朝は34歳で旗揚げするまで不遇な生活を送っていましたが、頼朝の義父時政はその時43歳です。平家を討伐して初代執権の地位を獲得したのが65歳でしたのである意味頼朝以上の大逆転の人生であったと思います。

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