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3分で読めるココ・シャネルの伝記

      2017/12/22

ココ・シャネルの一生を約2000字でまとめました。時間として3分20秒ほどで読めます。

◆ガブリエル・シャネルの一生

ココ・シャネル、本名ガブリエル・シャネルは1883年8月19日フランスのソミュールで誕生しました。父、母に男2女3の5人姉弟の次女でした。

シャネルが12歳の時、母親が病気で亡くなります。行商人であった父は子供の養育に困りシャネルらを修道院に捨てます。父親に捨てられたことはシャネルにとって受け入れがたいショックな出来事であり、修道院時代は暗く貧しく思い出したくない過去でした。

シャネルは18歳になると修道院を出てムーランに移り住みお針子として働き始めます。そして昼はお針子として働きながら夜は歌手として酒場で歌い、歌手として成功することを夢見ます。しかしシャネルには歌手としての才能がなく夢は半ばで挫折します。

そんなシャネルに対しシャネルのファンであったエティエンヌという金持ちの貴族が自分の家に来ないかとシャネルを誘います。彼の豪華な屋敷で愛人として何不自由なく暮らす中で、暇を持て余したシャネルは自分が被るための帽子を作り始めます。

このシャネルのセンスの良い帽子はあっという間に評判となり、このことが人生の転機につながります。シャネルはお店を開こうとしますが、恋人のエティエンヌは「女が働くなんて・・・」とあまり良い顔をしません。その一方、彼女の才能に惚れ込んだボーイ・カペルはシャネルのお店を開くための援助をします。

◆洋服屋を開業

結局、シャネルは出店のゴタゴタでエティエンヌと別れボーイと付き合うようになります。そして新しい恋人のボーイの援助の元で現在のシャネル本店があるカンボン通りにお店を開くことになります。シャネル27歳、ボーイと恋愛関係にあったこの時期が人生で一番充実していた時間でした。

(シャネルとボーイ)

お店はその後、順調に売上を伸ばし続けリゾート地であるドーヴィルに2号店をオープンします。パリの街中と違いリラックスした雰囲気が求められるリゾート地ではシャネルの動きやすく機能的なファッションが人気となります。特に伸縮性のあるジャージーの生地を使ったドレスが大きな話題となりファッション誌でも大々的に取り上げられました。

経営が順調に拡大していく中でシャネルにとって時代が更なる追い風となります。第一次世界大戦が勃発し、戦場に行った男性に代わり女性が働き始めるようになります。そして働きに出た女性達は従来の動きにくい服に代わりシャネルの服をこぞって買い求めました。

デザイナーとして順風満帆に来ていたそんなシャネルに不幸が訪れます。最愛のボーイが交通事故で亡くなってしまったのです。そんな失意のどん底で生きる気力を失ったシャネルを助けたのが女友達のミシア・セールです。

ミシアによって叱咤激励されたシャネルはまたやる気を取り戻し仕事にカムバックします。このミシアとシャネルの友人関係はミシアが亡くなるまで続きました。気性の荒い気難しいシャネルにとって唯一の女友達でした。

起業家としてファッションデザイナーとして成功したシャネルはこの頃から儲けたお金を使い芸術活動へ寄付をするようになります。というのも社交界に顔が広いミシアとの友人関係を通じて芸術家と交流を深めるうちに、彼らが金銭で困窮していることを知ったのです。

特に革命後に困窮していたロシアバレエなどに多額の援助をしました。こういった芸術活動・文化事業への貢献は上流階級の出身でないシャネルの社会的な地位を高めることになりました。

また、シャネルはロシアから亡命してきた調香師のエルネスト・ボーを資金援助することで世界初の人工香料を用いた香水の開発に成功します。この香水は「No.5」と名付けられマリリン・モンローも愛用していたことで知られており、今でも高い人気を誇っています。

この香水事業の成功は金銭的に莫大な利益をシャネルにもたらすとともにブランド経営を安定させることになりました。

恋愛においてはイギリスのウェストミンスター公爵との間で浮名を流しますが、恋人より仕事を優先するシャネルにとって結婚は難しい選択であったようです。シャネルは独身主義者ではなかったのですが、結果的に生涯を未婚のまま文字通り「マドモアゼル」として過ごすことになります。(マドモアゼルとは英語のMissで未婚女性の意味)

またこの頃「リトル・ブラック・ドレス」というシャネルの代表作の黒いワンピースのドレスを発表しております。

◆引退とカムバック

シャネルはその後、第二次大戦が始まると世間に対して嫌気がさしたのか全ての店を閉鎖して敵国であるドイツ人の愛人と生活するようになります。そのことが世間の反感を買ってしまいます。

戦後にパリが連合軍によって解放されるとドイツ人との交際を咎められ逃げるようにスイスに移り住みます。(事実上の亡命です)

スイスに移住しシャネルの人生もひっそりと寂しく終わるかと思われたのですが移住から9年後、シャネルはファッションの世界にカムバックします。シャネル70歳の出来事です。

復帰した最初のコレクションではシャネルは「時代遅れ」との酷評を受け危うく「過去の人」になりかけます。数少ないシャネルの人生のピンチの瞬間でした。

しかし、パリでは不評でもシャネルが信じる機能美のスタイルは海を超えた働く女性の国、アメリカの女性達に絶賛されます。アメリカで圧倒的な支持を受けたシャネルの服は、その後フランスで再評価されシャネルは見事復権を果たします。

シャネルは復帰後にリトル・ブラック・ドレスに次ぐシャネルの代名詞といえる「シャネルスーツ」を発表します。人々はこのシャネルスーツをこぞって買い求めました。

(シャネルスーツ)

そして1971年に亡くなるまで復帰から17年近く第一線で活躍し続けました。死の直前まで仕事に打ち込み、倒れた後ベットで「ほら・・・人はこんな風にして死ぬのね」という言葉を残してあっさりと亡くなりました。87歳の生涯でした。

(おしまい 2200字)

 

 - 3分で分かるシャネルの伝記