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~ヒストリアイ~

中世ヨーロッパの生活② ~食生活とそれを支えた農業について~

投稿日:2016-06-26 更新日:

中世のヨーロッパの食生活

中世ヨーロッパに生きる人々にとって主なカロリー源は炭水化物である穀物でした。つまり小麦などで作られたパンです。ヨーロッパ人と言えば狩猟民族で多くの人は普段から肉料理を食べていたとイメージしますがそれは大きな誤解です。

王様や有名な貴族を描いた絵画やおとぎ話などにそういった食事が描かれていますが、それはあくまでごく一部の金持ちの食卓だけです。

肉は高カロリーかつ栄養素の高い食品ですが、仮に主食として全ての人々に肉を振る舞うとすると牛や豚を飼育するための飼料や牧草は膨大な量になります。中世においてその供給は現実的に不可能でありました。

というか、そもそもそれだけ家畜のための飼料を育てる余裕があるならばその場所で小麦を育てた方がはるかに効率的です。豊かさの観点から言えばヨーロッパは非常に貧しく、農地の地力は低く家畜は常に痩せておりました。

パン(主食)

パンは人々にとって最重要なカロリー源でした。13世紀まで人々は一日に500g (つまり1320kcal)のパンを食べていました。(100g=264kcal)

記録によるとブルゴーニュの漁師達は毎日3kg(8000kcal)近いパンを受け取っていました。この8000kcalは現代の成人男性の一日の食事量からみると4人分に匹敵します。プロスポーツ選手でも多すぎる量です。当時は肉体労働が主な仕事なのでこの様な量が必要であったようです。特筆すべきはその必要カロリーの殆どをパンという一つの食品で補ったことです。

食事の総摂取カロリーおける穀物(炭水化物)の割合は突出して高い数値となっております。例えば教皇庁の学生が80%、ランドックの農民が85%、一般家庭で91%と非常に高い数値を占めております。つまり食事といえばほぼ小麦や大麦、ライ麦を使ったパンや粥などの料理でした。

栄養学の観点から見ればこの様な食生活は明らかに栄養バランスを欠いた状態でした。そのためビタミン欠乏症や脂質などの栄養不足が原因となる病気によくなったようです。

代表的な病気としてビタミンB3の不足による皮膚病の「ペラグラ」ビタミンDの不足による「くる病」にかかったようです。ビタミンDは魚や乳製品に多く含まれているのでそれらを日常的に満足に食べられなかったと考えられます。

ちなみに江戸時代の江戸の裕福な人達も「お米最高!」とひたすら白米ばかり食べたためビタミンB1不足による「脚気」になりました。江戸に住む裕福な人々がなった為に別名「江戸患い」と呼ばれました。

そして患者が江戸から離れると食事にビタミンB1が含まれる玄米や雑穀などが含まれるようになるので自然に治ることが知られておりました。

麦は調理法として主にパンとして食べられていましたがカマドがある場所が限られていたり、粉末にするためには費用が掛かるために製粉が必要なパンにせずに粥やスープにして食べられることも多かったそうです。

なぜ粉にするために費用が必要かというと水車や風車を利用して麦を挽く場合は挽いた麦の一部を使用料として領主に納めなければならなかったかったからです。これは風車税・水車税と言って教会や領主の大切な収入源でした。ですから少しでも食料を節約したければ麦を粉にせず粒のまま粥やスープにして食べたというわけです。

ワイン(別名イエスの血)

ワインはアルコールの中で人気の飲み物でした。キリスト教の影響で「イエスの血」とされるワインは特に重要視されていました。そのためブドウ栽培に適さない北部の寒い地域でもワイン生産の為に無理に栽培されていた程でした。(a)

同じことは「イエスの肉」であるパン(小麦)にも言うことができます。キリストの肉として本来小麦の生育に適さないような地域でも無理に栽培されました。(c)

そのためワインの値段は高価で庶民は常に飲むことができませんでした。庶民はワインに代わって日頃からビールやシードル(リンゴ酒)ポワレ(梨酒)と言った安いお酒を飲んでおりました。(b)

ビール(水でありパンでもあった)

中世のビールは今日の我々が抱いているビールのイメージとは大きくかけ離れた存在です。

まずビールは飲み物と言うよりも主要な栄養源の一つでありました。ビールの元祖であるセルヴォワーズ(英語名エール)は簡単に作れることから庶民によく飲まれていました。かなり濁っていて濃厚なこのビールはカロリーが高いのでパンと同じく毎日大量に食べられていました。水の代わりでもあり飲む粥でもあったのです。

ちなみに現代のビール醸造に重要な役割を果たすホップとラガーは中世以降に登場します。

ビールを水の代わりに飲んだらアルコール中毒や酔っぱらいが大量に出ないのか?と心配に思うかもしれませんが、現代の本格的なビールと違い当時のビールは未精製でアルコール度数も低い飲み物でした。また欧米人は日本人と違い肝臓内にアルコールを分解する酵素を持っているのでアルコール度数が低ければまさに水感覚でお酒を飲めます。(注:世界的に見てアルコール耐性を持っていないのは実は日本人を含む極東アジアの水田地帯に住むごく一部の人達です)

イギリスではビールは庶民の生活に欠かせない大切な飲み物でした。そのため政府によってパンと同じく価格の統制が行われておりました。人口5万人のロンドンではパン屋が50軒であったのに対してビールの醸造所はなんと1334軒もありました。ビールが庶民にどれほど身近な存在であったか理解できるかと思います。

これは時代が変わっても同じでした。ベンジャミン・フランクリンがロンドンに在住していた際に水の代わりにビールを飲んで生活していたことが彼の著書である「フランクリン自伝」中でも見ることができます。

彼の日記によれば一日のビールの摂取は朝食の前に500cc、朝食を食べながらジョッキ一杯。朝食とランチの間に一杯、ランチの中に一杯、夕方に一杯、そして夕食中に一杯とほぼ水と同じ感覚でビールを飲んでいました。量的に最低でもビールを一日2~3リットルは飲んでいました。

ビールはカロリーがあるだけでなく保存がきくことでも重宝されました。水に比べてビールは細菌に冒されていないのでアルコールの肝臓への負担を除けば無毒で水道水より安全な飲み物でした。

塩素消毒されてない井戸水は下水設備がない中世ではチフスやコレラに汚染する危険性が非常に高く、特に都市では井戸水が疫病の感染源であることも珍しくありませんでした。

ロンドンでコレラが大流行して大量の死者が出た際にも、ビール醸造所の周囲に住む人々が普段から水の代わりに常にビールを飲んでいたためにコレラに感染しなかったりするなど、飲料水の水源が汚染された地域の人々にとっては冗談抜きで水よりも安全な飲み物でした。

肉と魚

(野ウサギ、鳩などの野生動物)

当時の人々が貴族や庶民、聖職者などの階級に分けられていたように食肉にも明確なランク分けがなされておりました。これは「霜降り肉が美味しいから最高級である」という現代の味覚的な観点からではなく生前の姿が影響しております。

例えば鳥肉は鳥が空を舞うことから地位が高く、豚は地面を這いずり回りながら餌を食べることからランクが低いといった様な感じでした。ちなみに一番最低ランクの肉は「塩漬けにした豚肉」でありました。

食用とされた肉は日本人の感覚したら牛・豚・鶏が直ぐに思い浮かぶかもしれませんが羊毛の採取も含めて羊も主要な家畜の一つでした。その他に野ウサギ、鳩、鹿、ガチョウ、アヒルなど様々な動物の肉を食べました。

家畜は冬を越すだけの十分な飼料が足りなかった為に冬前になると繁殖の為に必要な最低限の数を残して屠殺されました。屠殺された家畜は燻製か塩漬けにして保存されました。

燻製はヨーロッパ北部や内陸で多くみられました。これは寒冷で常に暖房に火を使っていたため煙で燻すのが簡単であったからです。また反対にヨーロッパ南部では地中海に近く塩の入手も容易であった影響で塩漬け肉が好まれました。

魚はキリスト教の影響でよく食べられていました。特に教会では教義により肉を食べてはいけない期間があった為、その期間の食料源として安定して魚を供給できるように養殖をしていた程でありました。

香辛料(胡椒の地位の低下)

香辛料や砂糖に関しておそらく多くの方が「大航海時代でインド航路が発見されるまで胡椒は大変貴重なもので金や銀と同等の重さで取引された」というイメージを持っているのではないかと思います。

しかしこれから紹介する内容はそれとは大きくかけ離れており驚くべき内容になっております。以下の「香辛料」と「砂糖」に関する衝撃的な内容は「中世ヨーロッパ 食の生活史」の中からの抜粋となります。

ローマ帝国時代の4世紀まで胡椒は常に美食家の間では珍重されていた偉大な香辛料でありました。しかし、13世紀に入ると美食家のレシピの中で胡椒はわずか一割しか使われておらず使用頻度が激減した香辛料でした。その理由はオリエントより大量の胡椒が輸入されており価格の暴落が起こったからでした。

紀元前から1000年以上にも渡り胡椒はオリエントから輸入され続けておりました。そのため価格も古代に比べて圧倒的に下がっておりました。そして13世紀に入ると胡椒の価格は生姜よりも安く値崩れを起こしました。

その為コショウは「百姓のソース」と言われるほど地位が低下しており、グルメな美食家は貧乏くさいとしてレシピに使いたがらなかったようです。

大航海時代が始まる15世紀に入ると新大陸やインドとの航路が安全に確保されたことにより胡椒と砂糖は大衆にとってより身近なものとなっていきました。

砂糖

イスラムからもたらされた砂糖は当初は貴重な「薬」として珍重されていました。しかし、時代が進むと地中海地方でもシチリア島やイベリア半島でサトウキビの栽培が始まります。その結果砂糖は庶民にも手が届く調味料へと変わっていきます。

特にイベリア半島のヴァレンシアでは砂糖の栽培がブームとなり一面サトウキビ畑が広がりました。そして最終的にはポルトガルのマディラ島とアドレス諸島、スペインのカナリア諸島などの南の島々で安い砂糖が大量に生産されるようになります。

アドレス諸島では1500年には生産が数千トンを超える一大産業となった程です。更に中世以降に大航海時代が始まると砂糖はキューバなどの新大陸のプランテーションで原住民を酷使して大量に生産される様になり更に安価な調味料となっていきました。

農業

中世に農民によって栽培された主な穀物は大麦・スペルト小麦・ライ麦・エンバク・粟(アワ)・ソルガム(もろこし)・キビなどでありました。

中世では古代に比べ「三圃制」という農業技術の確立によって食料を安定して生産できるようになりました。三圃制とは「春蒔き→秋蒔き→休耕地(放牧地)」という3年を一つの単位とした農地のローテーション制のことです。

なぜ休耕させる必要があるかというと同一の品種(つまり小麦)を育てることによる連作障害を防ぐためです。休耕させることによって疲弊した地力を回復させるのが目的です。

この地力とは化学的に説明すると主に土中に含まれる窒素(N)のことです。小麦を育てると土中の中の窒素が使われて翌年の生育に必要な窒素が足りなくなります。これが連作障害と言われるものです。ですから土中の窒素を回復させることがこの三圃制の目的でした。

3年に1度の割合で休耕地に家畜を放牧をすると家畜の排泄物に含まれるアンモニア(NH3)などから窒素(N)を土の中に回収する効果(つまり天然の肥料)が期待できました。また、土の中の細菌によって窒素の土中の含有量が自然に回復するといった効果もありました。

(※ちなみに小麦だけでなく陸地でつくる米である陸稲(おかぼ)も毎年続けて作ると連作障害を起こします。水田を使わない畑で作るカリフォルニア米などがそうです。ただし、川の水を引き込む日本の水田では連作障害は起こりません)

ただし、この三圃制にも限界がありました。それは冬の間に全ての家畜を養うだけの飼料を生産することができなかったことです。ですから農家は翌年の繁殖用の必要最低限の家畜を残して他は全て殺してしまわなければなりませんでした。

そうしなければ家畜はやせ衰えて飢え死にするだけという厳しい環境でした。(この三圃制と連作障害の仕組みに関しては食の歴史と日本人に詳しい解説があります)

それでは現代の様に冬の間も家畜を殺すことなく越冬できるようになったのは一体いつ頃からなのでしょうか。この一年中家畜を飼育する方法を最初に発見したのはイギリスの農民でした。中世が終わりルネサンスを超えた1700年代に入ってのことです。

イギリスでは18世紀に入り冬の家畜の飼料になるカブを大規模に栽培することによって冬の間も家畜を飼い続けることができるようになりました。この新しい農業形態はイギリスからあっという間に世界中に広まっていきました。カブは家畜にとって救世主的な存在といえます。

食事全般に関して

中世の食生活において役に立つのが便所の発掘調査です。発掘調査によって麦の栽培品種は小麦と大麦が育てられ後にライ麦も多く栽培されたことが分かっています。その他にチーズや野菜(セロリ、カブ、キャベツ、カボチャ)果実(リンゴ、梨、プラム、サクランボ)ナッツ類などを食べて生活していたようです。

脂肪分は動物より油脂植物である亜麻やケシから摂取していたようです。そしてハチミツは砂糖の登場前の唯一の身近な甘味料として重宝されておりました。

中世の終わりになるとイタリアの大都市は食料の価格を統制して穀物の備蓄をするようになります。そして凶作によって食糧不足に見舞われると備蓄した食料を元値以下で売るようになります。その結果イタリアの都市部においては食糧不足による餓死者が出ることは殆どなくなりました。

大航海時代の船乗りの代表的な食事はビスケットでした。航海中にパンを焼くことはできませんからカビない様に固く二度焼きしたパンです。二度焼き(ビスキュイ)からビスケットと呼ばれる様になりました。焼いてから3日もすれば1年たったパンの様に固くなり保存食となりました。

大西洋沿岸の航海をする船乗りは航海中のワインの配給が一日当たり1人3リットルに達することも珍しくありませんでした。彼らは水の代わりにワインを呑んでいました。ちなみに当時の船乗りの一日に必要なカロリーは4000キロカロリーでした。

王や貴族の宴会

当時の人々は王侯貴族と言えども食事は手づかみで食べたいたのが当たり前でした。そのためテーブルの上に手洗い用の水がありました。(現在のフィンガーボールはこの名残です)また汚れた手を綺麗にする為にテーブルクロスが使われました。

(フィンガーボールと言えば知らない人が水を飲んでしまう逸話)

テーブルクロスはあまりに汚れるので時代が下ると現代と同じくリネンで作られた個人用のナプキンに置き換わりました。それでも食事中に汚れることには変わりがなかったようです。

食事用のナイフは晩餐会などの出席する客が自ら持参しました。当時ナイフは一般的でもフォークは珍しいものでした。メディチ家などのイタリアのごく一部の地域以外では使われておりませんでした。

なぜフォークが必要ないかというと手づかみだったからです(笑)むしろフォークを使うと周囲が驚きでどよめいたそうです。(使ってはいけないものだったらしい)

(※ちなみに日本や中国などでは箸が食事の際に使われており中国では紀元前に、そして日本でも聖徳太子の飛鳥時代には既に箸が使われておりました)

料理のプレートは何人かの客と一つの大皿をシェアしておりました。そして手が届かない範囲の食事は食べてはいけない決まりでした。客によって明確に振る舞われる料理のメニューが違っており偉いほど人ほど皿数が多いので沢山の種類の料理を食べることができました。その為、招待客は自分の手の届く範囲内の料理しか食べてはいけませんでした。

手づかみで周囲の客と同じ料理をシェアすることから食事中はなるべき手は他の物を触れないようにするのがマナーでありした。例えば顔や腕が痒くてもなるべく掻かない様に我慢しました。

日常で使われた食器は13世紀以前はごく素朴なもので貴族と市民の間に大きな差はありませんでした。金属製の食器やフライパン、やかん、ポット、鍋などは高価な貴重品でありました。そのため大部分が木製または陶製でありました。木製の食器は朽ち果ててしまい殆ど現存しておりません。

むすび

以上が中世ヨーロッパの食事と農業になります。中世は現代と違いガスや電気がない生活です。したがって食事にしても湯沸かしをするだけでも大変な一苦労です。また電子レンジもありませんので一度冷めた食事を再び温めることも大変手間がかかりました。

もちろん冷蔵庫もないので夏は冷たい飲み物を飲むこともできませんし、コーヒーや紅茶などは飲むことすらできませんでした。我々のごくごく当たり前の何気ない日常生活は時代が変われば大変贅沢な生活でもあるのです。

続き → 中世ヨーロッパの生活③ ~現代と比較した日常生活~

 

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