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~ヒストリアイ~

歴史を結果からみる呪縛(家康を例に)

投稿日:2020-01-30 更新日:

※今回の話はサクッと短めにしたので「歴史」ではなく「雑談」のカテゴリーに入れました。

徳川家康、天下を取れたラッキーマン

世の中の歴史好きの人達の多くが常に心掛けていることは歴史をできる限り客観的にみることですがなかなか実践するのは難しいようです。というのも後世に住んでいる私達は歴史の因果関係を逆から眺めることになります。

これは推理小説でいえば、真犯人やトリックを知った状態で最初から本を読むようなものだと例えられるのではないでしょうか。当たり前のことですが、真犯人やトリックを知った状態で推理小説を読むのと、まっさらの状態で普通に読むのとでは作品に対しての評価は大幅に違う結果になるかと思います。

歴史もこれと同じ様なことが言えるかと思います。歴史上に生きた人達は結果がどうなるかを分からないで行動するわけです。ですから結果を知ってる我々からしたら彼らの誤った行動に対して非常に辛口の評価を与えてしまいがちになります。どうしても歴史を逆からつまり結果論から眺めて評価してしまう呪縛に囚われるのです。

この呪縛はどんなに意識的に注意していても逃れられるものではありません。我々は歴史の結果を知っていますから歴史をつい逆から眺めてしまいます。

長寿という名の幸運

例えば徳川家康は関ケ原の合戦で勝利して最終的に戦国時代の勝者となります。我々は260年もの間続いた江戸幕府を開いた家康が天下人になるのが当たり前!の既定路線だと思いがちです。しかし冷静に振り返ってみると彼の人生の中で薄氷を踏む思いの危機などは少なくありません。

一例を挙げれば家康は1616年に当時としてはかなり高齢である75歳で亡くなったのですが、当時の医療水準を考えれば関ヶ原が終わった直後の60歳前後からいつ亡くなってもおかしくない状況でした。

ですからある意味「長寿」という幸運に恵まれたのも天下を取れた要因でしょう。実際、徳川将軍15人の中で彼より長命だったのは最後の慶喜だけですので(彼は西洋医学が導入された大正時代まで生きたので)やはり例外的な長寿です。

寿命の話がでましたが、家康にとって秀吉から天下を奪うためには幾人かの存命しては困る人達がいました。まず、秀吉の弟の羽柴秀長です。彼が秀吉より早く亡くなったこと、そして子供を残さなかったことは豊臣政権の大きな痛手でした。

秀長が亡くなった後、秀吉が1598年に亡くなります。更に豊臣政権の中枢である五大老の前田利家が翌1599年に亡くなりました。この辺はまあ家康より3歳から5歳ぐらい年上ですので順番的にまあ順当といえば順当です。

なお関が原の合戦は利家の死の翌年である1600年に発生していますがこれは偶然ではありません。関ケ原の合戦が発生するには家康を強力に牽制できた利家の死が必要な条件となっています。まあ家康からすれば目の上のたんこぶがいなくなって随分と行動しやすくなったことかと思います。

ここからが家康の寿命にとっての正念場です。順当にいけば次に有力なのは家康の番なので(笑)。関ヶ原後に加藤清正や結城秀康(家康次男)などの豊臣シンパの有力な武将が相次いで亡くなっています。清正や秀康は家康にとって息子とも言える世代なので彼らの早すぎる死は家康の天下取りに大きく影響を与えます。

例えば仮に家康が関が原から数年後に亡くなり、結城秀康が存命という逆転の現象が起きていれば秀康の弟である秀忠は大坂の陣を起こせなかったと思います。前田利家が亡くなって前田家の影響力が低下した様に家康が亡くなれば徳川家の影響力の低下は避けられないでしょう。

豊臣政権の内紛が追い風に

そもそも豊臣政権が文治派と武断派で権力争いなどせずに秀吉死後も秀長が存命で一枚岩であれば家康が付け込むスキすらなかったと思います。家康は天正14年(1586年)に大坂城で秀吉と謁見して秀吉の家臣としての道を選んだ時点で独力で天下を奪うのを諦めざるえない状況となりました。

この時の心境は家康本人しか分からないので予測するしかないですが、桶狭間の後に家康は信長と同盟を結び信長に従って領国を拡大していました。つまり織田政権に常に従うのには変は話ですが「慣れている」ので織田政権の後継者である秀吉に従うというのは特に不思議な話ではありません。

家康にとってはある意味、納得というか妥協というか諦めというか「悔しいけどまあ自分の天下取りはここまでだな」と素直に受け入れられる現実だったと思います。(そもそも天下取りのトップは安土城を築いた信長でしたしね)

ですからこの1586年の時点から逆転して家康が天下を取れたのは「天下をもぎ取った」というよりどちらかと言えば「天下が落ちてくるのを待っていた」という感じだと思います。

後世から見るとまるで既定路線にみえるけど

歴史の年表を見ると家康は秀吉の死後に着々と布石を打って計画的に天下をもぎ取った感じの印象を受けますが、冷静に振り返るとかなりの幸運に恵まれていたと思います。実際、秀康や清正の様に家康が秀吉より早く死ぬ可能性は十分にありえました。

もちろん家康は天下が落ちるのを待っていたとしても、ただ待っているだけでなく落ちるように色々策略を尽くしていたのは言うまでもありません。豊臣政権内の内部紛争でも尾張と近江、武断と文治でそれぞれ対立するようにけしかけていたことでしょう。

また、家康が長寿であることをさも偶然の様に書いていますが、家康は長寿になる努力を鷹狩も含めて一生懸命に努力しておりました。そして何より家康には天下を取るだけの実力と資格が十分にありました。

ちなみに大坂の陣は寿命が目前に迫り、流石になりふり構っていられなくなった家康が憂いなく安心して死ぬために起こした「待たない」合戦ですね。それまでの家康はひたすら「積極的に準備はするけど待つ」という消極的な姿勢でしたがそれを唯一覆した合戦です。

逆に言えばそれまで家康は周囲に野心を疑われ、ガチガチにマークされ積極的に動けなかったとも言えるかと思います。この時期になるとライバルの大名らも弱体化しており運命を自ら手繰り寄せる積極的な行動をしても問題ないぐらい徳川政権が盤石化してきていたとも言えます。

この合戦のおかげで後に260年続く徳川政権は盤石のものになりましたが、その一方で名声というか後世の評価というか家康が失ったものは沢山あったと思います。司馬遼太郎さんなんかも家康のことをボロクソ言っております。

歴史を遡ってみる呪縛

歴史に if は禁物ですが、秀吉の死後もう一度歴史を繰り返せば家康が同じように必ず天下を取れるとは言い切れないでしょう。(逆に何度やっても本能寺の変は起こりそうな気がします)それどころか寿命1つとってもこれだけの幸運に支えられた上での天下取りでしたのでもう一度やったらどんな結果になるか非常に興味があります。

後世からみたら徳川15代260年の天下泰平の歴史を知っているのでついついそれが歴史の「必然性」であるかの様に錯覚しますが、そういった結果からみる歴史の呪縛にいつも注意し気をつけながら歴史を眺めております。

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