Historiai

歴史や文明、雑学などを綴るブログ

*

藤原定子 ~中宮定子の壮絶な最後~

   

◆華麗なる藤原定子

藤原定子(ふじわらのさだこ)一般に中宮定子(ちゅうぐうていし)と呼ばれる女性が今回のお話の主人公です。

中宮定子は中学、高校でお馴染みの歴史上の人物です。歴史の授業だけでなく国語の古文の授業にも登場するという頻出頻度の高い女性です。そんな彼女の数奇な人生の運命、とりわけその壮絶な最後について語ってみたいと思います。

中宮定子といえば随筆「枕草子」の登場人物として有名です。作者の清少納言が女房としてお使えした相手こそ中宮定子でした。枕草子の作中で定子は天皇の正妻である中宮として人生の絶頂を迎えた状態で登場します。

定子の父親の道隆は時の権力者として関白に就任し権勢を振るいます。定子の兄弟は、兄の伊周は内大臣、そして枕草子によく登場する弟の隆家は中納言に就任するなど、いずれは父を継いで関白になることが約束された将来でした。道隆から始まるこの一族は後に「中関白家」と呼ばれる一族になります。

◆父の死と人生の暗転

そんな順風満帆であった彼女の人生に悲劇が訪れます。それは父の道隆の死です。道隆は43歳で亡くなる間際、息子の伊周に関白を継がせることを望みますがこれに失敗します。これが一族の悲運の始まりでした。その結果、一族の実権は息子の伊周ではなく道隆の弟である藤原道長に奪われてしまいます。

それでも定子は公的に中宮という天皇の正妻の立場にいるので安心かと思いきや道長が驚くべき行動を起こします。それが歴史の授業でもお馴染みの「二后並立」という出来事です。

道長は自分の娘である彰子を定子がいるにも関わらず一条天皇の正妻に画策するのです。その目論見は成功し中宮、皇后という二人の正妻が誕生します。この辺りは歴史の授業でも扱うので知ってる方も多いと思います。

こういった話題性に事欠かない定子でしたが、道長による権力掌握後にその後定子がどうなったのかはあまり知られておりません。枕草子がその後の定子のことを語っていないことなども定子がどうなったか知られてない理由の一つでしょう。

◆兄弟の逮捕と出家

さて、それでは大変前置きが長くなりましたが、枕草子で語られなかった定子のその後の人生にスポットを当てて話してみたいと思います。

父の死の翌年に定子は一条天皇の子を身籠ります。定子の周囲にとっては久しぶりに明るい話題です。男の子が生まれてその子が将来帝位につけば・・・そんな期待も膨らみます。

定子は出産の為に宮中から実家に帰ることになります。そんな出産を控えた大切な時期に「長徳の変」という政変が起きます。

この長徳の変は簡単に説明すれば道長による伊周、道隆兄弟の権力の座からの追い落としです。この事件によって定子の後ろ盾でもあった二人は大宰府と出雲にそれぞれ配流されてしまいます。

二人を捕縛するために、当時の警察である検非違使が屋敷内に踏み込んでくる様を目撃した定子はショックのあまりその場で自ら髪を切り落とし出家してしまいます。そして出家したままその年の暮れに一条天皇にとって初子である「脩子内親王」を出産します。天皇の子供といっても後ろ盾の父と兄弟を失った定子にとっては心もとないばかりです。

◆還俗と一条天皇の寵愛

父の死後、悪いことばかり起きる定子ですが、彼女にとって救いであることが一つありました。それは夫である一条天皇が彼女のことを本気で愛していたことです。

しかし、定子がふいに出家をしてしまい天皇は定子を寵愛することができなくなってしまいました。天皇はこれに大いに悩みます。定子に会いたいだけでなく産まれた自分の娘にも会いたい・・・・

ここで一条天皇は驚くべき行動にでます。なんと出家した定子を還俗(僧から一般人に戻す)させたのです。そして、宮中の片隅にひっそりと住まわせるようにしたのです。

(平安神宮に復元された大極殿)

正妻である中宮が宮中の片隅にひっそりと住むというのもとても悲しい話ですが、これは定子が後ろ盾を失っていた事とそして何より出家したのに無理やり還俗させたということが大きな要因でした。

この「出家した女性の再入内」は当時としてもかなりの掟破りの異例な行動で、相当世間の顰蹙をかった様でした。ですから一条天皇は深夜遅くにこっそりと定子のもとに通ったそうです。

ただ、この一連の出来事は誰の目にも「一条天皇は本気で定子を愛してる」ということを天下に知らしめたことだと思います。そして3年後、定子は皇子である敦康親王を出産します。正妻である中宮の皇子ですので天皇の最有力候補です。

これに焦った時の権力者の道長が強引に起こしたのが前述の「二后並立」です。中宮であった定子は「皇后宮」へそして彰子が「中宮」へと二人の正妻が誕生します。

この敦康親王の出産時に定子は出産のために同じく里帰りするのですが、定子の身分は中宮ですので単なる移動と違いその道中は行啓となります。しかし、道長に配慮してその行啓の指揮をするなり手がいなかったそうです。いっそ、中宮でなく女御や更衣であったほうが惨めを感じなかったかもしれません。

これら一連の出来事は道長がどれほど権力を掌握していたかを示すエピソードになったかと思います。実際、大宰府などに流されていた定子の兄弟の伊周や道隆もこの頃までには罪を許されて都に戻ってきております。これは二人が戻っても問題ないぐらい道長が権力を掌握した証拠でもありました。

ただ、そんな多く人達が道長に気を遣うような状況下でも道長を遠慮せずに一途に定子の元に通う一条天皇。この愛は本物です。

◆3人目の妊娠

敦康親王を産んだ直後、また時を置かずして定子は懐妊します。出産からわずか2~3ヶ月程での再妊娠なので母体を危ぶむ声もありました。そしてその年の暮れに出産を迎えることになります。

ちなみにこの当時、というか日本では古来から西洋医学が入ってくる明治時代までは出産方法はずっと座ったままの座産が一般的でした。現在はベットで寝ながらの出産になりますが、当時は床に座っての出産となりました。画像があれば説明が早いので探したのですが、平安時代の出産の風景がなかったのでよく分かる江戸時代の座産のイラストをお見せします。

(画像の出典はこちら

平安時代は天井から紐が垂れていたのかどうかはわかりませんが、この様に床に座った状態で出産をするのが一般的でした。ちなみに平安時代では妊婦さんは出産後もしばらくは寝っ転がって横にならない様に座ったままの状態に固定させていたそうです。

◆出産とその壮絶な最後

定子のこの3回目の出産の話は「栄花物語」の第7巻「鳥辺野」に詳しい叙述があります。以下は栄花物語を参考にして紹介したいと思います。以下文体を栄花物語に合わせて変えます。

(小学館の『栄花物語』 詳細な注釈付きの本は図書館にしかなかったので図書館で借りました)

この3回目の妊娠の間は定子の体調はあまり良くなかった。特に精神的な不安からなのか、いよいよ苦しそうな感じであった。本来なら中宮である定子のためにお祈りすべき僧侶たちも、権力者である道長に気を遣いそちらを優先して訪問しているために身内の僧侶達がお祓いや誦経をする始末であった。こういった不安がただでさえ体調が悪い定子を更に落ち込ませた。

何より中宮であっても彼女を気遣って訪れる人が殆どおらず、惨めさを感じる妊娠であった。ただ、帝からは定子の体調を心配した使者が頻繁に訪れており、その度ごとに贈り物を定子に与えていたことがせめてもの救いであった。また帰京した伊周・道隆の兄弟も定子の様子を見によく訪ねに来た。

11月の五節のお祭りの際にも(昔のお祭りの記憶から定子を)懐かしんだ人達が定子の元を訪ねて来た時も、女房の清少納言が見事な対応して生半可の若い女房らでは全く相手にならないことを見せつけもした。

そうこうしている間に臨月の12月15日の夜になった。帝も定子が産気づいたということで、様子を心配して使者がひっきりなしにきた。そしてあっという間に御子を無事に産んだ。女の子であるのが残念(口惜しい)であるが安産であったので一安心である。しかし、後産がおりないのが心配であった。(後産=出産後の胎盤の排出)

僧侶らがとりあえず頭を床につけて一心に騒ぎ立てる様なお祈りをしても効果がない。薬湯を差し上げても飲んではくれないので皆がなすすべなく狼狽えていた。

そうしている間に随分と時間が経ってしまったのでいよいよ心配になった。出産に立ち会っていた伊周殿が「灯りをもってこい」とおっしゃるので灯りを渡した。

薄暗い部屋の中で伊周が中宮の顔に灯りを近づけてみると顔に全くの生気がない。仰天した伊周は急いで顔を触ってみた。すると既に定子は事切れており、やがて身体は徐々に冷たくなっていった。

一同大変なことになったと狼狽えて、僧などは部屋の外でも中でもお経を唱えて祈り続けた。伊周は定子の亡骸を抱きしめて人目もはばからず大声で泣き続けた。

皇后藤原定子崩御 享年25歳

その後、伊周・道隆らは若宮や姫宮を別の場所に移し、大いに泣いた。二人が配流された際に、御所内の人々は大いに泣き尽くしていたので涙はその際に枯れ果てていたと思われたが、いつまでも涙は尽き果てなかった。

二人は「今回は心細い様子があったがまさかこんなことになるとは思わなかった。生きるとはすなわち辛いこと。長生きすればするほど辛いことだ」「もしできることなら一緒になって死出の旅路のお供をしたい」と言っては泣いた。

(以上、栄花物語の引用訳終わり)

◆一条天皇の悲しみと定子の遺詠

定子が亡くなった後、一条天皇の元にも訃報が届きます。それを聞いた帝は

皇后の宮、すでに頓逝すと。甚だ悲し

と述べたことが、藤原行成の「権記」に記録されています。そして定子のことだけでなく残された定子の遺児達のこともたいそう心配したそうです。

定子がなくなった後、しばらく天皇は清涼殿に閉じこもって決して彰子の部屋を訪ねず、また彰子も天皇から清涼殿に参上するように促されながら遠慮して参上しないなどお互いを気遣う姿が見られました。

定子の死後、遺品を整理していると手習い帳の書きつけの中にとりとめもなく書いた遺言の様な和歌を3首を伊周らが見つけます。今回の出産での死を予感していた様な内容でした。

よもすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひん涙の 色ぞゆかしき

(夜通し契りあった仲であることを あなたは忘れていなければ 亡くなる私を想って泣く涙の色は 何色なのでしょうか)※当時、悲しみが極まると血の赤い涙を流すと言われておりました。

知る人も なき別れ路に 今はとて 心細くも 急ぎ立つかな

(誰も知り合いがいない死出の旅に出るのは急なことでとても心細いです)

煙とも 雲ともならぬ 身なりとも 草葉の露を それとながめよ

(私は空に雲とも煙ともならない身ですが、草の葉にある露を私だと思って下さい)

この3首がその後に定子の遺詠として知られております。定子は突然亡くなったので当然、辞世の句を残したわけではありません。しかし、臨月を迎えて体調が悪く精神的に不安な中で万が一を考えて遺書らしきものを残したとしても不思議ではありません。

最後の歌にある煙や雲は火葬して煙になることの比喩だと捉えた伊周は、この歌を根拠に(雲や煙にならない=火葬されない)定子の遺体を荼毘に付す火葬ではなく土葬にします。

以上が定子の一生になります。最後に話の理解をより深める為にいくつかの補足やその後の話を書いてみたいと思います。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

※1
定子、一条天皇、彰子の年齢を産まれた年で並べてみると977年、980年、988年となります。帝に比べて定子が3歳年上、そして彰子が8歳年下でした。

ですから彰子が一条天皇のもとに嫁ぎ、そして定子が敦康親王を産んだ999年の時点では彰子はまだ11歳。子供を産める年齢ではなく道長としてはヤキモキとした時期であったと思います。

※2
定子とライバルであった彰子ですが、彼女が定子を押しのけて中宮になったことを含めて自分の意志とはあまり関係がなかったようです。

一条天皇は亡くなる間際に三条天皇に譲位をします。そしてその際に次の皇太子に定子の忘れ形見である自身の第一王子である敦康親王を後押しします。

この敦康親王ですが実は定子亡き後、彰子によって引き取られて養育されておりました。そして、彰子も天皇と同じく敦康親王の立太子を望みます。彰子には三条天皇との間に実子である敦成親王がいるにも関わらずです。

しかし、父親であり権力者である道長が彰子と三条天皇の子供である敦成親王を次の皇太子(後の後一条天皇)として強引に決定してしまいます。一条天皇と彰子が道長に猛然と歯向かった珍しい場面です。なお、彰子はこの件で道長のことを恨んだそうです。

ちなみに彰子は当時としては物凄い異例な長寿で86歳まで生きました。父道長、弟頼通の摂関政治全盛期にあって幸福な人生を送ったと思いますが、色々と辛いことや悩みもあったようです。

※3
上記でも書きましたが、一条天皇は定子から遅れることおよそ10年。31歳の若さで病により病床に尽きます。そして崩御する直前に辞世の句として次の言葉を残します。

露の身の 草の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことぞ悲しき

定子の遺歌の最後に「草葉の露」と歌っているのでそれを意識した歌です。「草の露となってこの世に留まっている君を置いて、出家した自分はこの世を離れて成仏してしまう」ということを読んだ歌です。ちなみに道長はこの「君」というのを娘の彰子のことだと解釈したようです。

※4
出産間際の場面で定子のもとを訪問した公達らを相手に清少納言が登場して圧倒した話を少し書きましたが、清少納言は定子が死ぬまで女房としてそばに寄り添っておりました。

彼女は定子が亡くなるまで7年ほど仕えましたが、仕えてからわずか2年も経たないうちに輝いた中関白家の没落が始まりました。枕草子ではそういった厳しい時期の記述はほとんど見られないことから、清少納言はあえて書かなかったということです。

定子が亡くなってすぐに清少納言は宮仕えをやめたそうで、その後の彼女の行く末はあまり正確には伝わっておりません。なお、彰子に仕えた紫式部は定子亡き後に出仕したので、二人は同時期に宮中にはいませんでした。したがって廊下ですれ違うニアミスのような事はありません(あったら面白いですね、というか当時、宮中の廊下ですれ違うとかあるのでしょうかね)

 - 藤原定子 ~中宮定子の壮絶な最後~