Historiai

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チャーチルの人生と塞翁が馬

      2017/11/30

(最もよく知られるチャーチルの写真 撮影の為に葉巻を取り上げられてカメラマンに激怒していたらしい)

人間万事塞翁が馬の様な人生を歩んだ一人の人物がいる。それが大英帝国が生んだ偉大なる政治家ウィンストン・チャーチルである。

チャーチルは英国首相として第二次世界大戦でナチス・ドイツのヒトラー相手に戦い抜き勝利した。アメリカの場合はルーズベルトだろうがトルーマンだろうが誰が大統領になっても第二次大戦で簡単に勝利したであろう。

しかしフランス陥落後ヨーロッパで孤立し、早々とヒトラー相手に和平を結ぶという選択肢もあった中で英国を最終的に勝利に導いたのはチャーチルの偉大な功績である。

実際、英国内においては劣勢の真っ只中でヒトラーと妥協して和平案を結ぼうとする和平派閣僚の尻を蹴っ飛ばしながら断固として徹底抗戦を叫び、大陸から孤立し精神的不安の中で心が折れそうな国民を鼓舞する彼のリーダーシップは目を見張るものがあった。

チャーチルの人生を振り返る

彼の人生は一言で表現すれば波乱万丈な人生であった。人生の浮き沈みとしてよく知られた例として文才が挙げられる。学生時代にラテン語のテストで0点をとった落第児であったにも関わらず、後年執筆した「第二次大戦回顧録」でノーベル文学賞を受賞した様に非常に浮き沈みの激しい人生を送った。

なお、後年テストで落第したことを振り返り「落第の補習の際に成績の悪い生徒が必ずやらされた品詞分解が文章を書く上で非常に役立った」と語っており落第した時にやらされた補習が後に役立ったそうである。

(若い頃のチャーチル イケメンである)

将来首相になるような人物だと大抵は学生時代は天才や秀才であることが多いが、彼は学校では落第生であり落ちこぼれのクラスに所属していた。実際に彼が進学した陸軍士官学校は落第生が進む進路なのである。彼の青春時代は決して意気揚々の前途が拓けていたわけではなかったのである。

しかし、文人より軍人を選ばざるをえなかったことはチャーチルにとってプラスに作用した。彼は頭で考えるより体を動かすことが得意なタイプであったようで、軍人や従軍記者として戦場で体を使って一定の活躍を見せその活躍が認められ後に政治家として当選することになる。そして父親が大臣を経験するような大物政治家であった影響もあり、あれよあれよと出世した。

彼の人生の一度目の絶頂は第一次大戦前後の時期である。史上2番目の速さ、若干35歳で重要閣僚である内務大臣に就任した。続く海軍大臣時代はガリポリの戦いで世論の批判を浴びるなどしたが、若手政治家として飛ぶ鳥を落とす勢いで要職を歴任した。

しかし、大戦が集結した後に彼の政治的な失策や日頃の言動や振る舞い、そして離党などの背信行為によって世間の支持を大きく失い最終的に落選して国会議員の職までも失うことになってしまう。

隠遁生活と黒い犬の影

人生の絶頂からどん底へと急降下したこの当時、自宅に引きこもり絵を描くなどをして暇を持て余していた彼のことを、世間のみならず家族までもが政治家として「終わった人」だと認識していたらしい。実際に庭先に佇む哀愁ある彼の姿がカラーフィルムで映像として残っている。

チャーチルは現在でいう鬱病の様なものを患っており、自身ではこのうつ状態を「黒い犬」と呼んでいた。政界から排除されたこの不遇な時代、落ち込んで鬱状態になると「黒い犬が来た」といっては鬱が去るまでひたすら我慢していた。人生でもっとも辛い時代であった。

(自宅のプールの修理を監督するチャーチル 横にいるのは石工)

終わった人物としてレッテルを貼られたチャーチル。血気盛んなで過激な「戦争屋」の政治家であったとそのまま一生を終えていたであろう。そんなチャーチルをチャーチルたらしめたのは他でもないヒトラーだった。彼がヨーロッパを未曾有の危機へ、そして何よりチャーチルを偉大な政治家へと導いたのだった。

チャーチルはミュンヘン会談の後、チェンバレン首相のヒトラーへの宥和政策を批判する。当時は国内においてチャーチルなどごく少数がこの妥協案に反対していたが、世間では相変わらず「戦争屋」のチャーチルが批判しているだけだと思われていた。チャーチルのみがヒトラーの本性を見抜いていたのだ。

その後、ヒトラーの和平破りによりチェンバレンは失脚し、チャーチルが予見していたことが現実となり彼は次第に人気を回復していく。そして第二次世界大戦がはじまりポーランドが陥落、ヒトラーの快進撃によりパリも陥落しフランスが降伏すると、チャーチルはヒトラーへの対抗として英国の期待を背負って首相に就任する。65歳の出来事であった。

首相就任とヒトラーとの対峙

復権まで長い道のりであったが、何が彼を首相就任へと導いたのか。それはチャーチルが一貫してヒトラーに批判的であったこと。周囲に戦争屋と呼ばれようとも脅威には断固とした処置をとるべしと態度を変えなかったこと。そしてヒトラーが快進撃し英国が絶体絶命になったことである。

彼の政治家としての最大の功績はヒトラーと妥協して和平をせず米国を戦争に巻き込んで英国、ひいては連合国を勝利へと導いたことであろう。この功績は当時の英国内の世論や閣僚の態度、そしてチャーチルの性格を踏まえて考えてみると、彼以外の人物であれば成し遂げた可能性は極めて低いといえる。

この後、チャーチルは戦争の英雄として栄華を極めた人生を・・・・という訳にはいかなかった。ここがいかにもチャーチルらしいと言えばチャーチルらしい人生であると思う。

ドイツが降伏し大戦後の体制を決定する戦後処理のこの時期になんとチャーチルは総選挙で敗北し内閣は総辞職、首相の座を失うことになる。代わってポツダム会談の交渉は後任であるアトリーが引き継ぐことになった。

(ヤルタ会談 その後に落選するとは夢にも思わなかっただろう・・・)

常識的に考えて各国が協調しなければならない戦後処理と講和に関して大戦中に各国首脳と連携をしていたチャーチルを罷免するのはありえないことである。このような選択を国民がする辺り大英帝国が凋落していく兆しと受け止められる。

平和な時代に戦争屋はお役御免とチャーチルを罷免した英国はその後に大きなツケを払うことになる。この時期、共産ソ連とスターリンの野望を見抜いていたのはチャーチルのみであった。

そんな失意のチャーチルが米国のフルトンの大学で行った演説が「鉄のカーテン」である。演説の名人として知られるチャーチルの最も有名な演説の一つである。この名演説によってヨーロッパで現在進行形で起きている危機をアメリカ、ひいては世界中の多くの人達に明確に認識させることになる。

その後チャーチルは冷戦と植民地の独立という大英帝国の崩壊の危機の中で国民から再度求められ首相として返り咲く。しかし大英帝国の没落を止めることはチャーチルをもってしても難しいことであった。1955年、高齢により首相を辞任。その後政治家として引退し余生を過ごす。

1965年、90歳の人生を終え静かに眠りについた。

波乱万丈な人生であるが・・・

こうして踏まえてみると彼の人生は山あり谷ありの波乱万丈な人生であり決して常に上り調子というわけではない。

彼の人生は落第生として始まり、落第生の進学先の陸軍士官学校へ。そのまま軍人となり持ち前の行動力が彼の才能を開花させ、そのまま政治家へと転身。政治家としてそのエネルギッシュなパワーが史上2番目、35歳での内務大臣の就任という快挙を達成させるがその行動力や言動が仇となり後の政界での大きな失脚に繋がった。

選挙に落選するなど世間や周囲のみならず家族までも政治家としての将来を失ったと思われ10年近くも要職から離れていたが、ヒトラーへの宥和政策をとったチェンバレン首相に対し、早くからヒトラーの危険性に警鐘を鳴らした。

そして戦争屋と陰口を叩かれながらも強硬策で望むこそを主張した数少ない政治家であった。その為ヒトラーが勢力を拡大すればする程、皮肉なことにチャーチルの世間での支持率も上がるようになる。

ベルサイユ体制がナチスとヒトラーを生み出したのならばヒトラーがチャーチルを生み出したのだ。

第二次大戦では同盟国のフランスが降伏しイギリスが大陸から取り残されてブリテン島に孤立するという国民が茫然自失になる危機的状況の中で首相へ就任。和平派の閣僚を叱咤激励し国民を鼓舞し徹底抗戦の姿勢を断固として崩さずにイギリスを連合国の一員として勝利へと導く。

戦後は戦争屋として総選挙で敗北した為に、戦後処理と戦後の新体制への関与をする機会を奪われるが、スターリンの思惑を早くから見抜き冷戦の到来を予見する鉄のカーテン発言をして西側諸国に警鐘をならす。

その後、冷戦期に首相に再度返り咲き、ラテン語のテストで0点をとった落第生は居残り特訓のおかげなのか「第二次大戦回顧録」でノーベル文学賞を受賞する栄誉を受ける。

彼の人生は多分に運と言うものに左右されており、彼の才能や強烈な個性が時代により失敗や成功をその都度引き寄せる結果となっている。とりわけヒトラーが登場しなければ、好戦的で問題発言が多い軍人上がりの政治家というレッテルを貼られたままの人生を送った可能性が大きかった。

彼を偉人足らしめる為には彼の才能をいかんなく発揮する第二次世界大戦という大舞台が皮肉なことに必要であったわけである。

チャーチルのおかげで救われた英国は幸運だったのか、それとも彼が救国の英雄として登場するまで追い込まれたことが英国にとって不運だったのかは誰にもわからない。ただ、彼が大英帝国を飾る上で大切な歴史の1ピースとなったことだけは間違いないであろう。

チャーチルこぼれ話

その1

第二次世界大戦中にチャーチルが一番ショックを受けたのはヒトラーでもなく日本がマレー沖海戦で新鋭戦艦のプリンスオブウェールズとレパルスを撃沈したことだった。

この2隻はイギリスの厳しい欧州戦線の中で四苦八苦しながらようやく太平洋方面に派遣することができた戦艦であり、英東洋艦隊の旗艦として日本に大きなプレッシャーを与えるものとして期待されていたのだ。

日本の航空機にあっさりと撃沈される様な代物ではなかったと思われていたのである。

その2

チャーチルの人種に関する偏見として以下の話がよく知られている。

1920年代に中東で軍からガスの使用許可を提案されたことに対して彼が出した回答が

「未開人に対して毒ガスを使用するのにためらう必要はない」

という返答が有名。彼の有色人種に対する考え方がうかがい知ることができる。

 - まさに塞翁が馬だったチャーチルの人生とは