蒼空の航跡の中に撃墜王と言われるのはどのようなキャリアを持ったパイロット達であるか、そしてパイロットの技量とどのパイロットが優れていたかについて書かれたものがあるので引用してみたいと思う。
パイロットの中で一番腕が良いのは兵曹長である。撃墜王として名前が残っているパイロットのほとんどが兵曹長であることみてもわかるし、パイロットの間でも兵曹長というのは特別な存在として一目置かれていた。
その兵曹長の中で特別際立ってたのが操練出身のパイロットであった。(パイロットの出身についてはこちらの記事を参考にしてみて下さい)そして操練あがりの兵曹長の中で自分が見た中で一番だったのが江馬さんだった。
江馬友一、操練二二期(昭和8年)この人はうまくて二五四空の中でもダントツだった。有名な岩本徹三が操練三四期、坂井三郎が操練三八期である。昭和九年(1934)から戦闘機に乗っている大ベテランである。撃墜数も五〇機はくだらないだろう。
私は当時から岩本徹三や坂井三郎、西沢広義(乙飛七期)の名前を知っていた。彼らはフィリピン、台湾地区のパイロットの中では有名であった。(中略)当時私が腕がいいと名前を聞いたことがある人で、戦後も名前が残っているのはこの三人ぐらいである。他の名パイロットは歴史の中に埋もれてしまった。
私がゼロ戦に乗り始めたころ、幅をきかせていたのが操練の三〇期代と四〇期代であった。確かにうまかった。気合も入っていた。しかし、この連中も江馬さんからすれば小僧あつかいだった。
操練の三〇期代はそのころゴロゴロいた。それに対して操練二〇期代はその多くが戦死し、昭和一九年になると殆どいなかった。江馬さんはその二〇期代であり、しかも前半の二二期である。
戦地のパイロットにとって「操練二二期が実戦部隊の兵曹長でいる」ということが驚きであった。(ちなみに著者の三亜空の隊長は小林特務中尉で操練九期の出身、現場を離れ新人パイロットの育成を担っている)
江馬さんは自分の戦歴や撃墜数を一切言わなかった。だから今も無名である。しかし、紛れもなく日本海軍のトップパイロットだった。
この本でも述べられているが実は撃墜数というのは怪しいものである。例えばルーデルというスターリンに名指しで撃墜命令を出された化物の様な爆撃機乗りがいるが、彼は活躍しすぎると戦場に出して貰えないために戦果を過小申告していた。あれで過小報告とかどんだけなんだよ・・・と絶望感しかない。
日本の場合は、撃墜のスコアを稼ぐことができたのはガダルカナルぐらいまでのゼロ戦優位の時期であろう。その後は戦闘機の性能差と戦場での機数の差があってどんな優秀なパイロットでも撃墜するのは困難であっただろう。
10機のゼロ戦の編隊に30機のF6Fヘルキャットが戦ったら、相当な力量差でないと撃墜するどころか無事に生きて帰る事自体が困難であったはずである。したがって海軍での撃墜王の話はだいたい戦争開始当初の台湾やフィリピン、そしてラバウルの部隊の話に集中している。
この本では、江馬さんが太平洋戦争前の支那事変の頃からの撃墜王であり(当時の中国の戦闘機であればスコアを荒稼ぎできたであろう)10年近く戦闘機に乗っていたこと、実際に最前線で戦っていたことを含めて名前を知られてないが海軍航空隊の撃墜王のトップの1人であると述べている。
そしてその理由も説得力がある。操練二二期が未だに最前線で戦っているのだ。操練二〇期代の人は戦場では珍しい。それは、殆どが出撃回数が増えるに従い撃墜されるからである。
多くの同僚が撃墜される中、無事に生き延びているのは運の良さもあるが、それ以上に抜群に腕がいいのだろう。凄腕の名パイロットが10年近く実戦で戦えば、太平洋戦争から実戦参加した世代では撃墜数で勝負にならないだろう。
また、岩本、西沢、坂井らの著名な撃墜王も当時、既に戦闘機乗りの間では腕がいいと有名であった裏付け証言も貴重である。
一つだけ疑問に思うのは噂話が海軍内で流れるのであれば、江馬さんと一緒に勤務して任地を移動した人は大勢いると思う。彼らが「操練二二期の人が現場にいるんだよ。伝説的な腕なんだよ」という様な噂話がパイロット達の間で話題になってもいいはずであるが、そういった話題を聞かないのはやはり江馬さんが亡くなって過去の人になってしまったからであろうか。