【この記事の要約】
当時、海外で日本人として天皇に次ぐ圧倒的知名度を誇った三島由紀夫がなぜノーベル賞を逃し、そして川端康成が受賞したのか。日本人候補の選考に関わったドナルド・キーンと三島の親友であるヘンリー・ストークスの証言を元に公開された資料から秘密に迫る。
◆日本人初!ノーベル文学賞受賞の経緯
近年、ノーベル文学賞の候補として村上春樹が毎年有力候補として登場し、文学賞の発表前後に世の「ハルキスト」を一喜一憂させることが毎年恒例の風物詩となっておりますが、日本人はこれまで川端康成、大江健三郎と文学賞を二人受賞しております。
ノーベル文学賞の受賞者の話になると必ず出てくる話題が「川端、大江より三島由紀夫と安部公房の方が受賞にふさわしかった」という意見です。確かに私も受賞者より三島と安部の方が優れた作家だとは思います。しかしその一方で、受賞した二人も受賞するに値する才能を持っていると思っています。
なぜ三島や安部でなく二人が選ばれたのか。どういう経緯で日本人の文学賞の受賞者が選ばれたのかは長い間謎でした。
その鍵となる答えの一部があります。ノーベル文学賞を選考するスウェーデン・アカデミーは2014年に、1963年のノーベル文学賞の選考過程の非公開を解除しました。受賞から50年が経過して機密を解除された資料に因ると日本人は4名ノミネートされていたようです。
◆ 公開された資料に書かれた候補者と評価
こちらがアカデミーが公開した内容を報道した日経新聞の記事です。以下に重要な部分だけを引用しておきます。
三島由紀夫、ノーベル文学賞最終候補だった 63年
資料によると、63年の文学賞候補は計80人。三島の他に小説家の谷崎潤一郎と川端康成、詩人の西脇順三郎も名を連ね、日本人4人が候補となっていた。
当時の選考委員会のエステリング委員長は三島について「日本人候補者の中で最も大きな受賞のチャンスがある」と高く評価。「今後の発展を継続して見守っていく必要がある」とコメントしていた。
選考委員会はまた、川端について「賞を与えるには時期尚早」、谷崎については「日本の意見では文学界の重鎮として確固たる地位にあるというが、委員会は残念ながら違う考えを持っている」と記していた。西脇については具体的なコメントはなかった。
この記事から三島が「最有力」と評価されおり、また川端は「時期尚早」との評価になっています。
(誰もが実力は三島由紀夫が一番と認めていた)
それではなぜ下馬評を覆し三島が落選し、そして川端が受賞することになったのか。その選考過程に迫りたいと思います。
◆ 三島由紀夫は海外で一番著名な日本人
三島由紀夫というと、当時から作家として日本国内でも圧倒的な名声を獲得していましたが、実は三島は日本のみならず海外でも有名人でありました。ニューヨーク・タイムズの日本支局長などを歴任し、三島由紀夫と個人的に親しかったことで知られるヘンリー・ストークスはその著書の中で三島を「天皇を別として海外で最も有名な日本人でエキゾチックな人物であった」と評価しています。
確かに三島由紀夫は海外メディアに日本について英語で語る映像などが残っており、外国人記者からしても取材しやすい作家であったと思われます。
◆ 川端が逆転で受賞した理由
それでは、なぜ三島ではなく川端であったのか。それについて、重要な証言がNHKで放送された「私が愛する日本人へ ~ドナルド・キーン 文豪との70年~」の中で紹介されています。
この番組の中でドナルド・キーンさんが明らかにした当時の状況の証言によると
- 当時、日本人から受賞者をそろそろ出すべきだという認識が選考委員会の中で高まってきた。
- その為、日本文学の翻訳者であり第一人者であったドナルド・キーンに推薦を依頼する(おそらくサイデンステッカーらも同じように依頼されただろう)
- キーンは谷崎、川端、三島の3名の候補者の中で作家として受賞に値するのは三島と考える。
- しかし、日本社会や日本の文学界は年功序列の制度があり、重鎮である谷崎をとばして三島が受賞すると日本の文学界に大きな混乱を引き起こしてしまう。
- 更に三島はまだ30代と若い。生きていれば受賞するチャンスはいくらでもある。
そういった経緯から選考委員会から意見を求められたキーンは三島でなく谷崎を最有力者として推薦したという経緯があったことを証言しました。
実際には谷崎が1965年に急遽他界した為に谷崎でなく川端が次点として68年にノーベル賞を受賞することになります。
なおキーンの証言と委員会が2014年に解除した公開資料の3名の評価は一致しております。両者とも作家としての評価では三島が最有力と評価しているわけです。
◆ 川端が先に受賞した余波
ノーベル文学賞を受賞したのは川端でしたがこれによって幾つかの予期せぬ出来事が発生します。日本社会に波風を立てないように配慮した気配りが逆に波風をたてる結果となってしまったかもしれません。それはその後の二人の人生を見れば一目瞭然です。
まず受賞した川端ですが4年後の72年に自殺することになります。理由は遺書がないのでよくわかわりませんが、ガス管を咥えていたので意図的に自殺したのは確かです。ノーベル賞を受賞してなければ、あるいは自殺はなかったかもしれません。
一方の三島は有名なあの三島事件を引き起こします。もし彼がノーベル賞を受賞していたら、あの事件は起きなかった可能性があります。三島はノーベル賞を喉から手が出るほど欲しがっており、ドナルド・キーンが彼の作品より安部公房の作品を先に翻訳したりするとなじるなど、ノーベル賞の受賞に並々ならぬ意欲を燃やしておりました。
ノーベル文学賞の受賞が彼の作家としての名声の最後の重要なピースであったようです。ですから、もし仮に受賞していれば「ノーベル賞作家」としての振る舞いとしてあの様な行動をとらなかったかもしれません。
また、ノーベル賞を受賞できなかったそのフラストレーションが、現実の世界である政治への不満として鬱積したのかもしれません。いずれにせよ、ノーベル賞の受賞は三島にとってかなり欲求不満のガス抜きになったであろうことは想像に難しくありません。
◆ むすび
以上の様に日本人最初のノーベル文学賞の受賞者は川端でしたが、そこには大きなドラマと様々な思惑が入り乱れ、そしてそれは最終的に両者にとって不幸な結末を引き起こしたと考えられます。
なおノーベル賞の受賞を切望した三島ですが、川端が受賞した事それ自体は自分の事に様に喜び、また川端も「本来なら三島君こそ受賞すべきだった」と三島を最も評価しており、お互いに作家として認め合い個人として両者は敬意をもって接していたことを付け加えておきます。