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~ヒストリアイ~

環境破壊と自然との共生②(中国・日本編)

投稿日:2017-03-20 更新日:

前編のヨーロッパ編では最初に人類最古の神話が環境破壊の話であることをピックアップしました。それでは同じユーラシア大陸の東側である東洋、とりわけ中国では環境問題は歴史的にどうであったのかを見てみたいと思います。

◆古代の再生可能エネルギー

中国の文明発祥は黄河文明までさかのぼることが出来ますが、黄河文明当時は、黄河流域は木々が生い茂る森林地帯や草原地帯であったそうです。作家の司馬遼太郎さんは著書「この国のかたち 5」の中で「古代、華北平野は大樹海だった」と述べています。現在は北京の郊外まで砂漠が押し寄せていて往年の姿が(孟子が話した通りに)まるで想像できませんが、緑多き土地だったようです。

(昔は緑に覆われていたが、現在は荒れ地と化した黄土高原)

中国は古代からとにかく人が多いです。現在13億人以上の人々が中国大陸に住んでおり、大陸全土が人で溢れかえっていますが肥沃な大地に収穫量が多い米を作れるということから、農耕が始まった当時から多くの人々が生活していました。

人口が多いと言うことは必然的に有限である資源の奪い合いが発生します。そんな中でとにかく中国の至る所に豊富にあった資源が人と土です。人は亡くなれば有機物として土に帰る様に土も再利用可能な資源です。人々は土をコネて天日に干して硬く乾燥させた「日干しレンガ」を家などの建築資材として利用しました。

また、コネた粘土質の土を乾燥させ後に焼いて硬くした「焼きレンガ」を使って建物を建築しました。代表的なレンガの建築といえば万里の長城です。万里の長城では焼きレンガを作るために相当量の森林が伐採されたそうです。

(レンガ製の長城は主に明の時代に作られた)

現在の長城の規模を見れば気の遠くなる様な量のレンガが必要であることがわかります。歴史書には長城建設のために強制的に駆り出された多くの人が、その重労働のために亡くなったことが記されています。

◆森が鉄を生む

さて、ヨーロッパ編でも述べたように中国では紀元前5世紀の孟子の時代には牛山が既にハゲ山になるなど、かなりの森林資源の破壊が進行しておりました。それではなぜ古代の中国人は山林を丸裸にするまでを木が必要であったかというと薪としての燃料や家を建てる建築資材として利用したりなど色々ありますが、特に大量に消費したのが金属の精製、とりわけ製鉄です。

ヨーロッパの話でも製鉄によって地中海沿岸部がハゲ山や荒れ地となった話をしたと思いますが、中国でも同様のことが起きます。この製鉄のために木々を伐採し木炭を大量に生産するのですが、ちょっとの鉄を作り出すだけでも木炭をそれはもう半端ない量を消費したそうです。

紀元前7世紀、管鮑の交わりで有名な管仲の『管子』「森が鉄を生む」という言葉があります。司馬さんはこれを「鉄を作るにはまず森を造成しなければならず、春秋時代には華北平野には(製鉄によって)森が少なくなっていたのだろうと想像できる」と分析しています。

この様な森林の乱伐の結果、以前は森であった部分が砂漠や荒れ地へと変化していきます。そして現在、砂漠化は遂に北京近郊までその勢いが迫ってきているというわけです。

中国だけでなく朝鮮でも同様のことが起きており、朝鮮は樹木が自然に回復しないため、製鉄でハゲ山になった山々が現在でも多く残っております。そのため朝鮮半島では歴史的に森林不足が原因による治水が問題となっておりました。

(現在の北朝鮮・典型的なハゲ山)

特に農業に深刻な打撃を与えており、日本の植民地時代まで深刻な問題となっていたそうです。(朝鮮総督府は問題解決のために植林を積極的に行ったそうです。歴代の朝鮮王朝は何をしてたんでしょうねぇ・・)

前述した司馬さんの著書の中でも朝鮮半島は製鉄が原因でハゲ山になり、いかに朝鮮で製鉄が盛んであったか述べているので要約してみます。

日本の邪馬台国なども記録した3世紀の中国の史書「魏志」の「東夷伝」にはいかに弁辰(現在の釜山付近の地域)が製鉄の殷賑の地であるか記録されている。

「国、鉄を出す。韓・カイ・倭、皆従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」(魏志「東夷伝」)

この様に通貨の代わりになるぐらい鉄が盛んに製造され、その鉄を求めて日本やカイ(現在の北朝鮮・中国東北部)から人が往来するほどの賑わいを見せていたということです。

◆森がハゲ山になるメカニズム

ここまで繰り返し、ハゲ山や荒れ地など述べてきましたが、森林には再生能力があります。例えば山火事になったりして森が燃えて一面の木がなくなったとしてもそのままハゲ山になることはありません。森はその跡地に木の芽を出して、森を再生しようと試みます。そして数十年を経れば見事に森は再生されて元の姿を取り戻します。

ではなぜ伐採された森がそのままハゲ山になってしまうのでしょうか。その1つに放牧があります。山や平地の木々が伐採されると再生するために新芽が生え始めます。この新芽を放牧された家畜が食べてしまうからです。

とくに酷いのが羊とヤギで牛や豚は地表の上だけを食べますが、ヒツジとヤギは再生しようとする木の芽や根っこまで文字通り根こそぎ食べ尽くしてしまうので、森の再生にとどめを刺す結果となってしまいます。実際、孟子の牛山のエピソードでもそのことに言及していて

「牛羊又從而牧之、是以若彼濯濯也」

と「ヒツジとヤギの放牧で草木が一片も生えなくなった」と述べています。つまり森林が伐採された後に放牧することは森の終焉を意味します。

(羊の放牧地は牧草など草しか生えない)

このような草も根も食べ尽くされた状態になってしまうと、森は本来持っている森林を維持する再生力を失います。肥沃な表土は雨風に流されて河川に注ぎ込み山本来の岩肌が露見します。表土がなくなれば森を自然に再生することはできなくなります。これがハゲ山になる一連のプロセスです。

◆日本は何故ハゲ山にならなかったのか?

この様に中国・朝鮮と製鉄による森林破壊を見てみましたが、それでは我が国ではどうだったのでしょうか。日本でもこの製鉄と森林の伐採を示唆した古代の話があります。それが古事記や日本書紀に登場する出雲の八岐の大蛇(ヤマタノオロチ)の話です。

スサノオが8つの頭と尾を持ち鬼灯の様な真っ赤な目をした八岐の大蛇を退治すると、大蛇の尻尾から三種の神器の1つである「草薙の剣」を見つけるという話です。

当時の出雲地方では「たたら製鉄」を使った製鉄が行われていました。鉄は古代では最先端の技術ですので非常に重要な産物でした。出雲の斐伊川(ひいかわ)流域では良質な砂鉄が産出するため山を切り崩しては砂鉄を採掘し、そして近隣の森を伐採しては木炭を燃やし鉄を作り出します。

(砂鉄、現在の製鉄では鉄鉱石が用いられている)

八岐の大蛇の8つの頭とは支流も含めて枝分かれした斐伊川の姿であったと考えられています。そして大蛇が暴れる姿は伐採されて保水力がなくなった森に洪水が発生した被害を表現した姿だとも言われています。

大蛇のほおずきの様な真っ赤な目は製鉄所の膨大な木炭を使用して出来る真っ赤な高温の炎や、地域一帯からもくもくとした真っ黒な煙は騒乱の様相を表しているなど神話から様々な憶測がなされております。

神話では最終的に大蛇を退治した後に三種の神器の1つである草薙の剣(鉄剣)を大蛇の尻尾から手に入れます。これは出雲を平定(大蛇の退治)して鉄の生産地(草薙の剣)を手に入れたということを暗に表現しているかと思います。

この話でも森の乱伐によって斐伊川が氾濫するといった話が示唆されています。森は治水において天然のダムとしての重要な役割を果たしていることを教えてくれます。

◆森の再生と植林

この様に日本も古代から製鉄の為に相当量の森林を伐採してきました。しかし、現在の日本では中国や朝鮮と違いハゲ山を見ることがありません。日本でハゲ山が少ないのは、中国や朝鮮に比べて日本は南方にあり自然に樹木が回復しやすい土地であることもありますが、実は積極的に植林をしているためです。

なぜ植林をしたかと言うと、日本人は古代から熱心に環境保全に取り組んでいて・・・というわけではなく(笑)実際の所は森を伐採して放置したままにすると、台風などの大雨が降れば、それがそのまま鉄砲水となって下流部の流域に押し寄せ大規模な水害を引き起こすからです。山間部の森林を伐採すれば世界中どの場所でもヨーロッパ編で述べた「シュメールの大洪水とノアの方舟」の話と同じ様なことが起こります。

特に日本の川は明治時代に治水の技術的指導のために来日したお雇い外国人のヨハニス・デ・レーケが「これは滝だ」というぐらい急流でしたから、そういった意味からも洪水の被害は甚大であることが想像できます。ですから古代から日本人は治水の意味合いからも積極的に植林をしておりました。

(オランダ出身のレーケからしたら滝に見えたのだろう)

特に鉄を生産するたたら職人たちは自分達が使用するための膨大な量の木炭を安定して供給するために森の伐採と植林を30年で1サイクルとなるように計画的に行って近隣の山林を管理しておりました。中国地方の製鉄集団は同時に山林王でもありました。

製鉄の為のたたら一回の作業は「3昼夜の連続操業」を1つのサイクルとしておりました。そしてその一回のサイクルに必要な木材はなんと1ヘクタールに及びました。つまり100㎡(=少し小さめのサッカーコート)の森が消えることになります。

したがってたった1つのたたらを継続して操業するためには最低1800ヘクタール、つまり約4平方kmの森が必要であったそうです。この規模の大きさの森を計画的に伐採し植林することで、30年を1サイクルとしてたたらの継続的な運営を可能としたそうです。

ちなみにくどいようですがたたら1つでこの量です。伐採して森林を伐り尽くしたら次の土地に移動する生活を続けていたら100年もあれば相当量の森林が消失すると思います。ヨーロッパや中国を含め世界各地でハゲ山や荒れ地が量産されるのも納得できる話です。

この話を踏まえてみると日本と朝鮮の山々の景観の違いは、日本の方が森が再生しやすい気象条件など有利な点があることが事実ですが、やはり森を再生させる植林をしたのかどうかの違いであるかと思います。

日本では城を建設するなど大規模な領国開発と発展が起こった戦国時代から江戸時代初期、そして維新後の殖産興業が勃興した明治時代、そして太平洋戦争の空襲によって消失した建物や家屋を再生しベビーブームの人口増に対応するために全国の森という森を伐りまくった昭和中期、これらの時期に特に森林資源を失いました。

実際に戦後の一時期はその影響もあってか多数の死者を出す台風などの大規模な水害被害が頻発するなどしましたがその度に時の為政者は「諸国山川掟」や「森林法」などを制定するなどして森林の管理と治水を積極的に行ってきました。

◆宋・コークスの発明と文化の隆盛

さて、中国から朝鮮、日本へと製鉄と植林の話になりましたが、また中国に話を戻したいと思います。黄河文明から着実に森林破壊を続けて国土が荒廃し続けた中国北部ですが、遂にその限界を迎える時代が来ます。10世紀も過ぎて宋の時代を迎えた頃に遂に森林資源の枯渇が深刻化します。

それはつまり燃料である木炭の不足を意味するところでもあります。この不足する木炭の代用として用いられたのが、洋の東西を問わず「石炭」でありました。

(露天掘りの石炭)

中国では早くも10世紀の宋の時代から石炭が使われ始め、驚いたことに「コークス」までも開発されていました。(石炭が有害物質でありコークス化することではじめて実用化できるのは前述した通りです。コークスについての詳しい解説はヨーロッパ編を参照して下さい)

ヨーロッパでは18世紀、産業革命時のダービー卿の登場までコークスを待たねばならないのとは対照的で、近代になる以前の中国の文明的な技術レベルと文化的な水準の高さには驚かされます。

この石炭(コークス)は単に木炭の代用品に留まりません。エネルギー不足の問題を解決し中国の文明を更に発展させます。まず、木炭より高温であることから製鉄が容易になります。これはそのまま鉄の生産量の増加を促します。鉄が増産されればそのまま石炭を掘る道具の増産につながり、人々に石炭を安定して供給することを可能にしました。

さらに、石炭が増産され安価に安定供給されると、一般家庭の暖房や燃料に石炭が使われ始めます。木炭より熱量が多い石炭は暖房として優れているためにより寒冷な地域での越冬を可能としました。これまで住むことが不可能であった北方の寒冷地域へ生活圏を拡大すると共に、既存の都市の人々の冬の生活をより快適にしました。

(暖房や料理の燃料として大活躍の練炭)

中国では未だにこの石炭を生活の中心とした生活を送っており(大都市の大気汚染の原因の一つです)発電所などを含めたエネルギー生産は石炭を主要としております。現在、全世界の石炭の生産と消費の約50%が中国であり、中国の全エネルギー生産の約70%は石炭を使用しているほど石炭に依存した生活を送っています。

石炭の活用は金属だけでなく他の分野にも影響を与えました。宋の時代に花開いた陶磁器などの工芸品ではコークスの高温によって、青磁や白磁といったより優れた硬質の磁器を製造することを可能とし、磁気は中国の代名詞とも言えるものとなりました。

(南宋の青磁、青の原料はコバルトで西域から入手していた)

英語で中国をChinaと書きますが、Cを小文字で書くchinaは磁器を意味するぐらいです。(ちなみに日本のjapanを小文字にすると「漆器」を意味します)

また、料理の際に木炭の代わりの燃料として用いられると、その高温から中国の食文化を一変させます。現代では中華料理といえば生の食材をあまり使わないイメージがありますが「羹に懲りて膾を吹く」という言葉があるように、古代では中国でも膾といった生の料理も食べられていました。

ちなみに膾とは肉や魚の生肉のことで、特に魚の生肉のことだそうです。日本で言えば刺し身のことで実際に「膾」で検索すると中国人が刺し身を撮影した写真が多数でてきます。

(最も洗練された膾料理・刺し身)

しかしコークスが普及すると大火力を利用した炒め物が登場し、今日の中華料理の代名詞である「炎の料理」として食文化の発展に大いに貢献するようになりました。この様に石炭は中国人の暮らしを文化的に一変させる程の影響を社会に対して与えました。

(ガスより炭の方が火力が強いので今でも好まれたりしている)

◆近代化以降の発展と深刻な環境汚染

この様に中国では森林資源の枯渇によって木炭から石炭へエネルギーの代替には成功するのですが、依然として荒れ果てた森林は回復したのかというと放置された状態であり続けます。石炭は現在も知られている様に非常に環境に悪い温室効果ガスをまき散らします。現在の中国では首都の北京を含めた大都市ではPM2.5の問題などを含め大気汚染が深刻な社会問題となっているのは周知の事実です。

(曇りの日ではないですよ。念のため。)

また、毛沢東が将来の核戦争による人口減を想定し「産めよ増やせよ」の政策を採用した結果、3億人であった人口があっという間に14億人近くまで膨れ上がるという人口政策の失敗も深刻な影響を社会に与えています。人口が多ければ多い程人々は多くの資源を必要とするわけで、一人っ子政策などの人口抑制政策がもう少し早く行えておれば環境汚染の被害も少なかったはずです。

また中国が将来において更に発展すればより多くの人が近代的な生活を求めるようになります。そうなれば14億人の人達が更なる資源を求めるわけであり古代文明が崩壊した原因である資源の奪い合いが発生しないとは言い切れません。そういった意味において環境問題、資源問題は今日の近代文明が持続していくための大きな鍵と言えると思います。

◆おわりに

人類最古の物語が森林伐採の環境破壊の話であるように、人類は有史以来、自然を破壊しては次の場所に移動するという使い捨ての生活を続けてきました。古代文明が繁栄した跡地は現在、荒れ果てた大地に変貌しております。

その一方で森の神「フンババ」の様なメソポタミアの森の民は、自然と調和をした生活を送っていたと言えます。でもそれは言い換えれてみれば「非文明的な生活」を送るということでもあります。

現在中国では極めて深刻な環境破壊が進んでいることが世界的に知られています。その反面、中華文明はその悠久の歴史の中で、文明社会とは正反対の思想を産み出しました。それが道士や仙人を生み出した「道教」という思想です。老子、壮士によって生み出された道教は老荘思想とも言われ、仙人となって霞を食べて生活し究極的には文明社会から離れ自然との融合・一体化を目指した思想です。

この道教の中で老子が文明社会を築いた人類に対して繰り返し述べていることが「自然に帰れ」という哲学です。2500年以上も前の偉大な先人の警鐘が現在でも我々の胸に深く突き刺さります。

現在の私達はこの環境破壊という文明の歴史の頂点に立っているということを認識しなければなりません。そしてこれから文明を捨て去って「自然との調和」といった選択肢を選ぶのか、それとも文明の利器である科学技術によって環境破壊をも超克(つまりテクノロジーによる自然環境の回復・森林の復活)するかはわかりません。

ただ、どこかで「自然との調和・共生」という口当たりの良い言葉を聴いたならば多少は注意をしてみる必要がありそうではあります。


(2010/08)

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