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~ヒストリアイ~

メイフラワー号の真実 ~実は少数派だったピューリタン~

投稿日:2016-07-24 更新日:

メイフラワー号と言うとアメリカに入植した最初の人々で現在のアメリカ合衆国建国の始祖という扱いを受けている。ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)というのがそれである。(Pilgrims=巡礼始祖という意味である)

ここで中学の歴史の教科書に載っているような簡単な説明をしてみたいと思う。

イギリスに住むピューリタンと呼ばれる清教徒達が自由を求め1620年にメイフラワー号に乗り新大陸に向けて出港した。彼らは船上でメイフラワー誓約(Mayflower Compact)と呼ばれる宣誓を行い、現在のニューイングランド地方のプリマスと呼ばれる場所に到着し、入植した。後にピルグリム・ファーザーズと呼ばれた彼らはアメリカに最初に入植した人々として知られている。

以上が俗によく言われるメイフラワー号の話であると思う。17世紀の話なので建国神話と言ったらおかしいかもしれないが、アメリカにおいては伝説的な出来事である。しかし、この文章だけ見たら特に問題はないと思うが、事実を調べていくと疑問に思うことがいくつかある。

例えば、彼らは現代のニューヨークより南にあるヴァージニアへの入植を目的地として航海に出たが、航路を間違え最終的にNYの北にあるニューイングランド地方と呼ばれるボストン近郊のプリマスに到着した。(ちなみに、ヴァージニアの語源は「The Virgin Queen」と呼ばれ「処女王」であったエリザベス一世に因んだ地名でありイギリスの植民地経営の拠点であった。)

このことからコロンブスが新大陸を発見した1492年以降、100年に渡ってイギリスや他の国が新大陸に植民地を建設しており、決して彼らが「最初」の入植者ではなかったことである。中学の歴史の授業では初めてアメリカに本格的に入植した人がメイフラワー号の人々の様な印象を与える説明がなされている。

また、入植するための乗客は102名であったが、入植者全員がピューリタンではなく、むしろ乗客の中でピューリタンは半数以下の少数派であったという事実である。

こういった事実や疑問をもとに教科書では数行で説明されるこのピルグリム・ファーザーズとメイフラワー号について詳しい解説をしてみたいと思う。

そもそもピューリタンとは何か?

この入植者たちは清教徒ことピューリタンですが、そもそもピューリタンとは何なのか。よくある説明としては

“宗教革命においてプロテスタントのカルバン派の人々をイギリスでは「ピューリタン(清教徒)」と呼び、フランスでは「ユグノー」オランダでは「ゴイセン」と呼んで・・・・・”

と説明できるように、おおざっぱに書けばイギリスにおけるプロテスタント派の呼称である。

イギリスの宗教はカトリックからプロテスタントと変遷するが、他のプロテスタント諸国と違い、宗教革命で宗派を変えたというよりローマ・カトリックと英国王家が喧嘩して宗派を変えた側面がある。時の国王が英国国教会のトップを兼ねた結果プロテスタント国家になったというわけで代々国王が教会のトップを務めるなど厳密な意味でのプロテスタントではなく多分にカトリック的な色合いを持つ部分も多い。

その為、当時の宗教改革の波の中で英国国教会を認めないプロテスタント支持派もいるわけで、彼らの中で「こんなのは本物のプロテスタントではない。英国国教会をより純粋(pure)なプロテスタントにしていこう」という考えを持つものが現れます。

この純粋なプロテスタントへの「純化」のことを=purifyというわけで pure、pufify から「ピューリタン」と呼ばれるようになったわけです。したがって清教徒は清いというより「純化」や「より本物のプロテスタントにしていく派」と翻訳した方が正しい意味合いになるかと思います。

なぜピューリタンが航海にでたのか?

それではなぜそのピューリタンが新天地を求めて新大陸に来ることになったのか。それに対しての答えは「アメリカとは何か(斉藤真・著)」という本に詳しく説明がなされています。概要をざっくりと説明すると

ピューリタンは当初は国教会のイギリスから逃れ、オランダで自分たちの信仰を守っていたが、長く移住していると例えば子供たちが徐々にオランダに影響されていく問題が発生してくる。自分たちはイギリス人としてオランダで生活してるのだが、子供たちはオランダで兵隊として雇われたり、文化的にオランダに染まるなどオランダ化が見受けられた始めた。

信仰の自由など自分たちの価値観を守るために外国に来たのにその守るべき信仰や価値観が子供たちには受け継がれず、子孫がオランダに同化していく危険性がでていた。これは問題だということで、同化の影響を受けない場所。つまり誰も住んでいな新大陸のイギリス領であれば問題ないだろう。ということでアメリカへの移住が決まった。

というのがざっくりとしたピューリタンのアメリカ行の理由になるわけである。

実はピューリタンだけでなかったメイフラワー号の乗客

さて、そんなわけでアメリカ行を決めたピューリタンであるが、彼らに「資金」という問題が発生する。アメリカに行くまでの旅費、到着してから開発するまでには資金が必要だ。しかし、オランダに一度移住してまった彼らにそんな資金はない。そんな彼らはどのように資金を調達したかと言うと当時、新大陸の植民地経営をしていた会社に投資をしてもらったわけである。

自分たちが新大陸に行き商品価値のある産物、例えば毛皮や鉱物などを本国に持ち帰れば植民地経営としては黒字になるわけで、最終的にトマス・ウェストンという投資家などを含めた人々から財政的な支援を受け、イギリス植民地であるヴァージニアを目指したわけです。

その際、問題になるのはピューリタンというのば普通の人々であると言うことです。投資として植民地経営を任せるわけであるなら本来は20代の若い男性などをイギリス中から募集して肉体的に頑強な人たちを送り込む必要があるわけですが、ピューリタンはそういった人達ではない。そんなわけで投資家は彼らの入植が成功するようにお目付け役というか、サポート役として多くの人々を同じく入植者として同乗させます。

メイフラワー号の乗客は102名ですがその内訳をみると一目瞭然です。

・ピューリタン家族   41名
・投資家らが募集した人 40名
・双方の召使や奉公人  21名

というわけで、半数がピューリタンではないということになります。歴史の教科書はこれを意図的に無視していると言えると思います。

メイフラワー誓約の本当の姿とは

さて、イギリスを出航したピューリタン。彼らはここからアメリカ史に残る伝説の航海に旅立ちます。この後に起きた出来事を歴史用語の視点からピックアップしてみると「ピューリタン」「メイフラワー号」「メイフラワー誓約」「ピルグリムファーザーズ」「プリマス」という用語となります。さて、その中でメイフラワー誓約とはどんなものか調べてみたいと思います。

メイフラワー誓約は『Mayflower Compact』の訳語でありメイフラワー契約などの名前でも呼ばれる乗客達の契約書です。一見するとメイフラワー号に乗ったピューリタン達が新大陸の上陸前に、これから新しい土地での生活で揉め事が起こらない様に、同じ神を信奉する全乗員の合意の元で契約書を作った。この社会契約的な誓約が今日の契約国家であるアメリカの源流なのである。と思わせる様な記述である。

しかし、現実は大いに違うのです。メイフラワー号は出航後、新大陸に到着したけれど、予定していたヴァージニアではなく遥か北の(後の)ニューイングランドに到着します。そして、冬が始まった影響で船が南下することが困難であり、その場(プリマス)で越冬することを余儀なくされます。ここで問題が発生します。それは、入植者たちの入植許可がヴァージニアであったためです。

ピューリタンについてきた投資家たちのお目付け役としての人々は、ヴァージニア植民地において、彼らの指示に従うことが強制されていましたが、この地がヴァージニアではないということで、行動の自由を主張して別行動にでる人達が出始めました。

これに驚いたのはピューリタン一行です。というのも、ピューリタン側の人達は家族単位で移住を希望するなど新大陸で生活するのに適した人々ではありません。家を建てるにしても食料を確保するにしても、新大陸で投資家側の若く力のある人達の協力が必須です。そんな彼らが「自分達は自分達で勝手にやるので」と別行動を考え始めたのです。

そこでピューリタン側が考えたのがメイフラワー誓約です。ピューリタンと投資家の人達の合意文書。これがメイフラワー誓約となります。そして、彼らは「神の名」においては宗派が違いますから(おおまかにいえば同じプロテスタントのカルバン派と英国教会派ですが)同じ価値観を持つ何かが必要です。そして宗派が違えど2つのグループは英国人であるわけですから、同じ国王を王として忠誠を誓うわけで「国王と祖国の名誉」の名の下で誓約を結ぶわけです。

一見すると上陸前に揉め事を未然に防ぐために誓約を結んだイメージがありますが、実際は揉め事が起きたのでその解決として両者が誓約を結んだということです。そして、今後は「政治団体をつくり憲法を制定して問題を解決していこう」という今のアメリカの源流と言うべき誓約をここで結んだわけです。

ちなみに誓約を結んだのは全部で41名でした。102名の中で女性と子供は署名しませんから、成年男子だけとなりました。そしてピューリタンが19名、投資家側が22名とピューリタン側が少数派でした。

メイフラワー誓約のその後

上陸した人達が待っていたのは厳しい冬でした。越冬した最初の冬だけで半数の人達が死亡するという事態になります。おそらく食料の不足からくる栄養不足などの問題に加え、冬の寒さが大きな問題であったと思います。

半数の死者を出した冬が終わり、翌年3月になるとメイフラワー号は船員を連れてイギリスに戻ります。残された彼らは、ヴァージニアに行くことなく後にニューイングランドと呼ばれることになるこの地で新たな共同生活をしていくことになるのです。そしてそれから150年後、アメリカ独立戦争はこのプリマスにほど近いボストン茶会事件を皮切りに始まっていくのです。

 

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