1.はじめに
1942年6月、真珠湾奇襲によって華々しく開戦を迎えた日本の連合艦隊はミッドウェー海戦において散々たる敗北を喫しました。それはもう目も当てられないような惨劇です。なぜ連勝続きの中でこの様な歴史的敗北を喫したのでしょうか。多くの人たちが指摘するその理由の一つに作戦計画の杜撰さあげられます。
あれほど緻密に計画された真珠湾奇襲攻撃から一転して驚くほどの杜撰な計画の結果、帝国海軍が誇る正規空母4隻は次々と撃沈されてしまいました。まさに連勝による慢心が招いた大敗北でした。暗号の解読や偵察機の故障など海戦中に様々な不運に見舞われた機動部隊ですが、実はこの悪夢であるミッドウェー海戦と非常に似た経過をたどった海戦を機動部隊はそれ以前に既に経験しておりました。それはセイロン沖海戦です。
このセイロン沖海戦では空母全艦撃沈というミッドウェーとは対照的に参加艦隊に一隻の損害もなくそれでいて相手側の空母を撃沈するという完全勝利の戦果を挙げております。同じよう戦いでなぜ片方が圧勝しもう片方が大敗北という結果となったのか。
ミッドウェー海戦とセイロン沖海戦のそれぞれの経過を辿ることによってミッドウェー海戦が「悲運の敗北」でなく「約束された敗北」であることをあぶり出してみようかと思います。
2.ミッドウェー海戦のあらまし
ミッドウェー海戦はハワイの西方にあるミッドウェー島を攻略することを目的とした連合艦隊の一大作戦でした。なぜミッドウェー島を攻略したのかいえばそれはその年の4月に東京がドーリットル空襲の被害にあったからです。敵の空母からの日本本土の爆撃を受けた海軍は赤っ恥をかかせられると同時に突然出現する相手側の艦隊の捕捉の難しさを肌で感じました。
そのためアメリカの残存する機動部隊を捕捉して撃滅するためにミッドウェー島の攻略を企画しました。ミッドウェー島を攻略しあわよくばそれを阻止するために出撃してきた米軍の空母艦隊を叩くというのが主な目的でありました。驚くべき事にアメリカ側は日本側のこれら一連の動きを「暗号解読」により事前に察知しておりました。そして太平洋方面で動員できる海軍力のすべてをこのミッドウェー作戦に投入してきたのです。
そして6月に日本側がミッドウェー海域に進出しミッドウェー島を空爆している最中に突然米軍の空母艦隊からの爆撃を受け、参加空母全4隻を撃沈されるという大敗北を喫することとなりました。これがミッドウェー海戦の簡単なあらましです。さて、それではもう一つの海戦であったセイロン沖海戦のあらましを見ていこうかと思います。
3.セイロン沖海戦
セイロン沖海戦はミッドウェー海戦から2ヶ月さかのぼる1942年4月に行われたインド洋での一連の作戦のことを言います。当時、日本軍はシンガポールを占領し東南アジアからイギリスの勢力を一掃しました。しかし、イギリス海軍はインドの沖合のセイロン島において本国からの援軍を迎えて東洋艦隊を再建しつつあり、日本としてはインド洋方面におけるイギリスの影響力を排除することを目的として計画された作戦でした。
具体的に行われたことはイギリスのインド洋での基地であるセイロン島のコロンボを空襲しそこに停泊しているイギリスの東洋艦隊を殲滅することにあったのではないかと思われます。
日本の機動部隊はセイロン島の軍事基地のコロンボをまず空襲しそこにいる艦隊と航空機の破壊をします。そして日にちを変え同じセイロン島のトリンコマリー軍港を空襲します。空襲中に偵察機から空母を含めた敵艦隊を発見したという報告を受け、トリンコマリー軍港の空襲を取りやめて目標を変更し敵艦隊を攻撃します。
その結果、イギリスの空母を含む巡洋艦など数隻を撃沈し勝利を治めます。イギリス軍は日本軍の強さに驚きインド洋東部から撤退し東南アジアの後背地であるインド洋からイギリスの脅威を取り除くことに見事成功します。これがセイロン沖海戦のあらましです。
4.二つの海戦の共通点と問題点
それではセイロン沖海戦の出来事を列挙してみたいと思います。
セイロン沖海戦
- セイロン島空襲作戦が暗号解読により事前に漏れていた。
- インド洋作戦の目標が「イギリス軍の脅威の除去」であり具体的に何であるのかが不明確であった
- セイロン島空襲の前に敵の偵察機に発見される(司令官は「これで奇襲はなくなったな」と言いその他の措置はなし)さらにトリンコマリー軍港空襲の詳細を書いてみます。
- トリンコマリー軍港空襲中に攻撃隊が軍港の第二次攻撃の必要を打電
- 第二次攻撃隊出撃前に偵察機から敵空母「ハーミーズ」の発見
- 山口多聞少将が「攻撃隊発進の要ありと認む」と意見具申
- 敵空母攻撃用に第二次攻撃隊を陸上爆弾から魚雷へと換装
- トリンコマリー攻撃隊の収容後、空母攻撃準備中に敵機の攻撃を受け赤城に近接弾が落下
- 敵空母攻撃隊が発進、空母ハーミーズを撃沈
これを見ると、ミッドウェー海戦の経過を知っている人にはあまりの一致に驚かれるかと思います。それではセイロン沖海戦の経過を参考にしながらミッドウェー海戦の経過を対比してみようと思います。
ミッドウェー海戦
- 日本側の暗号が解読されていた。
- 作戦の目的が「ミッドウェー島の攻略」か「敵空母の殲滅」なのかが不明確であった。
- 相手側の偵察機に発見されたのにそれに対する措置を全くしなかった。そして細かい一連の流れがこちらになります。
- 第一次攻撃隊はミッドウェー島を空襲した後に、ミッドウェー島上空で第二次攻撃の必要を打電した。
- 万が一、敵の空母が発見されたときの為に温存していた攻撃隊を第二次攻撃隊とするために魚雷を陸上爆弾に換装するように指示した。
- 第二次攻撃隊の陸上爆弾への換装作業が終了し、攻撃準備が整ったその時に、偵察機が敵の空母艦隊を発見した。
- 山口多聞少将が「攻撃隊発進の要ありと認む」と意見具申
- 敵空母を攻撃するために再度、陸上基地用の爆弾を艦船攻撃用の魚雷に換装した。
- 第一次攻撃隊がミッドウェー島から帰還するが、航空隊収容時に空母が攻撃を受ける。
- 同じく、第二次攻撃隊の魚雷への換装作業中に敵機の襲撃を受ける。
- 空母攻撃隊の準備が完了し、いざ発進する直前に敵からの攻撃を受け4空母が撃沈される。
つまりミッドウェー海戦もセイロン沖海戦も同じように敵空母の発見から攻撃までに「魚雷の換装」という時間ロスの不手際を演じております。またその兵器の換装という艦隊にとって最も脆弱な時間帯に敵機からの攻撃を受けております。運良くセイロン沖海戦では赤城は爆撃を受けるも外れる結果となっておりますが、ミッドウェーでは逆に4隻の空母の撃沈という最悪の結果に終わっています。
暗号解読という不可抗力な問題を除き、セイロン沖海戦でもし赤城に一発でも爆弾が甲板に命中したのであれば、恐らくこういった問題の内いくつかは改善されていたのではないのかと思います。特に山口少将の「直ちに攻撃を求む」という提言は二度の海戦で連続して黙殺されていますが、仮にセイロン沖海戦で赤城に命中弾が出ていたら作戦後に十分に吟味する課題として検討されていたのではないかと思います。
5.結びとして
この様に二つの海戦で繰り返し同じような経過を辿っていることを考えれば、日本軍がミッドウェーで敗北したのは必然であるといえると思います。ミッドウェー海戦では日本海軍は情報管理や目標設定の明確性など多くの問題点を抱えていました。しかし真珠湾攻撃以降の勝ち戦から教訓を学び取るという気概をなくした日本軍に対して、アメリカは全兵力を結集し必勝の態勢で臨みました。そうしたことを踏まえてみれば日本側が勝つ要素は全くなかったとも言えるのではないのかと思います。
戦いにおいて勝利したにせよ敗北したにせよ必ず失敗による教訓が得られます。そして往々にして敗北した側はその失敗を教訓として次の戦いでの大きな勝利につなげます。ミッドウェー海戦で索敵のミスを痛感した海軍はその教訓を大いに活かし、その後のマリアナ沖海戦では43機もの索敵機を発艦させております。敗北から教訓を得ることは簡単なのです。
問題は勝者側です。日露戦争での日本海海戦の大勝の後に秋山真之が聯合艦隊解散之辞で起草した「勝って兜の緒を締めよ」その言葉が連合艦隊に於いて真珠湾奇襲からミッドウェー海戦まで守られることがなかったと思うと残念でなりません。