フロンティアの定義
アメリカと言えばドラマ「大草原の小さな家」でおなじみの開拓地のイメージを持っている人もいるかと思います。開拓地、英語でいうフロンティアにはイメージとして「未開拓の広大な土地」という意味だけではなく実は正式に定義された言葉でもあります。
正式な意味合いで使用するフロンティアとは「1平方マイルに人口が2~6名の地域」と定義されています。これはつまり夫婦が一組いればフロンティアとなるわけです。
男性がたった1人で暮らしているのならば、それはフロンティアではなく未開発地、また2組以上の家族が住んでいれば人口は大人4名にだいたい子供が3名以上はいますので合計7名になるのでフロンティアではなくなります。
つまりフロンティアとはその土地に「1組の家族が住んでいる」と言い換えることができるよく考えられた言葉です。
(5名なのでまだフロンティア)
このフロンティアですが、フレデリック・ターナーが1890年の国勢調査の結果を元にして1893年に「フロンティアは消滅した」と発表しました。つまり全米各地の隅々までにアメリカ人の入植が完了したということです。
そこで今回は独立直後の13州から太平洋に面した西海岸に達するまで合衆国の領土拡大の変遷を見ていきながら、どのように獲得した新領土に入植していったのか政府の政策を元に見ていきたいと思います。
国有地の払い下げの原則「土地条例」
まず、独立直後にオリジナルである13州以外にイギリスからカナダを除く北米の植民地を手に入れました。新領土に隣接している一部の州などは「自州の領土を増やすチャンス」として色めき立ったりもしましたが、最終的にこれらの州は既存の州に分け与えるのではなく、政府直轄の国有地としました。そして人口が増えるたびに新しい州として合衆国に加盟する(獲得領土は新州とする)というスタンスを政府の方針としました。
そして新領土へ入植するために一連の方針を決めたのが1785年の「土地条例」です。国有地を国民に農地として払下げる条件を決めた法律です。土地条例に関して詳しくはこちらでも説明しましたが、1マイル×1マイル(1.6km)の広さの土地を640分割してその1つである1エーカーを1ドルで売買するというものです。1エーカーは64m×64mですから1ドル払えば誰でも結構な広さの土地を安値で確保できますし、640ドル支払えば1マイル(1.6km)四方の広大な土地をブロックごと全て購入できたわけです。
これにより多くの移民や土地を持っていない若者が自らの土地を確保することが可能となり西部(といっても植民地の西側程度のエリアですが)への開拓が大いに促進されることになりました。
国土がなんと2倍に ルイジアナ買収
そんなアメリカの国土ですが、ひょんなことから領土を拡張する機会を得ます。それがナポレオン戦争です。建国直後の13植民地の西にはフランス領であるミシシッピー川とその水運の一大拠点である港湾都市のニューオリンズが広がっていました。
英仏戦争で忙殺されるフランスは新大陸にまで手がまわらないためにナポレオンは1803年にルイジアナを捨て値である破格の1500万ドルでアメリカに売却することになりました。ルイジアナ購入に関しては簡単に説明した(実は広大な地域だったルイジアナ買収)というエントリーがありますのでよかったら参考にしてください。
ルイジアナといっても実は当のアメリカとフランス自身も一体どのような土地でどの位の広さがあるのかよくわかっていない様な状況での領土の売却となりました。それぐらい未開発の土地であったのです。このルイジアナの買収で合衆国の領土は一挙に2倍に膨れ上がります。現在の領土の23%がこの時に購入した土地です。それを1500万ドル。まさに破格です。
(今のルイジアナ州だけでなく実はその北のミシシッピ川一帯の広大なエリア)
その後、テキサスの編入やメキシコからカリフォルニアやアリゾナなどの割譲などを経て現在と同じ合衆国の本土を得るに至ります。
国土の10%を無償配布したホームステッド法
この広大な国有地を政府は更に市民に無料で分け与えて入植を促します。それが1862年に制定された「ホームステッド・アクト(自衛農地法)」です。この法律はリンカーンによって南北戦争中に制定されました。
リンカーンがこの法案を制定出来るようになったのは実は南部と北部が分裂して奴隷制の南部に遠慮をする必要がなくなったからでしたが結果として北部は戦争継続のため西部の多くの農民の支持を得られることになりました。
ホームステッド法の内容は
「アメリカ人やアメリカに帰化する移民に対して最低5年間は定住すると約束すれば西部の土地に対し160エーカー(800m四方)を無料で与える」
という法律です。当時はまだ農業が生活の主体でありましたからこれは「自作農になりたい人に無料で土地を提供する」ということを意味します。
イギリスなどヨーロッパでは小作人が地主によって搾取されていましたし、南部では大農園の下に奴隷がいましたからこれは健全な自作農を増やすという政策でもありました。また彼らが積極的に入植を行うことによって国土の開発を促すという意味合いもありました。
この法律によって多くの貧しいアメリカ人や移民が土地を持つことが可能になりました。この政策はなんと1976年まで続けられ最終的に合衆国の国土の10%の土地が無償で農民に払い下げられました。
政府としても西部が開拓されれば人口も増える、人口が増えるということは市場が増えるという訳で東部の産業に対しても国内需要の増加を見込める為に良いこととみなしておりました。
夢溢れる大陸横断鉄道
これら西部へ入植する農民が増え、人々の往来が盛んになると大陸を横断する鉄道の必要性が出てきました。しかし、その建設費用は莫大です。そして連邦政府にはその為の資金はなく、あるのはただ膨大な土地のみでした。そのため政府は1862年に
「太平洋鉄道法」
を制定します。これは鉄道会社に線路の沿線の土地を無償で提供し、その土地を売却して得た利益を新たな線路をひくための資金とすることを目的とした法案です。
これにより鉄道会社は線路の建設費用を心配する必要がなくなり積極的に新規の路線を敷設出来るようになったこと。政府としても国内の隅々まで線路網が張り巡らされることにより国土の開発と市場規模の拡大が見込めるようになること。鉄道会社と政府、両者にとって利益のあるものでした。
この法律によって大陸の西側と東側からそれぞれ競争する様に大陸横断鉄道が建設されることになりました。そして東部から西部へは日常生活で必要な商品を輸送し、また西部から東部へは広大な農地で生産された農作物を輸送することが可能となりました。
ヨーロッパから押し寄せた移民を含めた多くの人々はホームステッド法によって得られた農地まで大陸横断鉄道に飛び乗って向かうことにより、フロンティアは徐々に姿を消していくことになりります。そして両法の成立からわずか30年余り経過した1893年には前述した通りフロンティアは消滅することになったのです。