土佐日記に関して一般に知られている知識の他にちょっと興味深い内容を簡潔に紹介してみようとおもます。
まずは一般的に知られている簡単な土佐日記の内容です。
- 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」で始まる日記
- 作者は古今和歌集の編者としても知られる紀貫之
- 貫之は男性だが女性だと偽って仮名文字で書いた(日本最古のネカマである)
- 土佐から京都に帰る船旅を記した旅日記(紀行文)
多くの人が知っている土佐日記の内容といえばざっくり言えばこんな感じだと思います。
それでは以下にプラスαの情報です。
1. 紀貫之自筆の原本が長い間残っていた
驚くべきことに土佐日記の貫之自筆の原本は室町時代まで現存していました。正確に言えば銀閣寺でお馴染みの将軍、足利義政に献上されたことが記録に残っています。この頃に原本の行方がわからなくなったそうです。
原本の散逸時期が室町時代と遅かったため、現在ほぼ完全な形で貫之の原文が判明しております。なぜ原稿が散逸しなかったというとそれは貫之が書いた原本が長い間、蓮華王院(三十三間堂のお寺です)に秘蔵されていたからです。
この自筆の原本が存在した時期に原本を参照して多くの写本が作られました。そしてそれら写本の中でも幸運にも4冊が現在まで残っておりこの4冊をそれぞれ照らし合わせることでほぼ間違いなく貫之が書いたオリジナルの文章が判明するということです。
平安文学は例えば枕草子や源氏物語などの作品は写本に写本を重ねた状態で現代に伝えられております。それこそ原本から写本されること10回や20回では済まされなかったでしょう。
こうした写本を重ねることで写本する人により話の内容を都合の言いように改変されてしまったり、文体を変化させられる可能性があります。ですから著者が書いたままの原文が判明していることは非常に貴重なことです。
ちなみに蓮華王院から鎌倉時代に原本を借り受けて写本をしたのはあの有名な藤原定家です。そして定家の息子の為家が父と同じように写本をしております。
定家はこの原本がいかに貴重であったのか理解していましたので(この時点で既に貫之死後から300年経過しています)たんに写本をするだけでなく原本の細かい情報なども書き残しております。
例えば原本の大きさを採寸したサイズ、また最後の見開きページを貫之の筆跡を真似て書くことで、貫之の実際の筆跡がどのような雰囲気であるのかをできる限り伝わるような努力をしております。
ただ、定家がこの原本を写本した際にすでに年齢は70歳を超えており、かつ二日間という突貫作業で筆写したために誤字などの間違いをしている可能性もあります。
また定家自身が写本をした感想を書き残しておりそこには「字体が古くて読みにくいので大変だった。読みにくい場所はちょっとわかりやすいように書き直しておいた(テヘペロ)」と書いてあるのでそういった意味では100%の写本であるとは言えない状況でした。
(↑で筆写した人による改ざんの話を書きましたたが、この場合も定家の自白により文体が改変されています。)
なお為家の息子の写本が文体を変更することなくなるべく忠実に紀貫之の原文を写しております。
2. 実は京都に戻ったあとに書かれた
土佐日記は貫之が旅行中に書いたプライベートな日記をたまたま見た人が「これいいね!みんなにも見せよう!」と言って世間に広まったような種類の日記ではありません。実は京都に戻った貫之が他人に見せることを前提にして書いた文学作品になります。
おそらく京都までの実際の旅路では仮名文字ではなく実務的な意味合いから漢文で日記を書いていたと思います。そしてその漢文の日記をベースにして文学作品として仕上げたものがこの土佐日記だと思われます。
ちなみに当時の「日記」というのは現代のプライベートな日記と異なり漢文で書かれ、公的な性格を帯びた業務日誌の様なものでした。
それではなぜ帰京後に書いたのが分かるのかと言うと色々根拠はありますが、例えば登場する地名の順番が実際の地名順ではなくバラバラであったりするからです。
その他にも京都で何度も見ているはずの山を文学性を高めるためにまるで初めて見たかのような描写にしたりするなど明らかに事実とは違った内容を書いているからです。
旅行中に記録した漢文の日記を参考にしながら仮名文字をあえて用い、文学性を高めるために一部事実を改変して書かれた作品が土佐日記であるといえると思います。
3. 単なる旅の思い出日記ではない
土佐日記は京都に戻る旅日記だということは多くの人が知っていますが、その内容というと一般にはあまり知られておりません。ではどんな内容であったかを簡潔に書くと大まかに2つのネタの繰り返しになります。
一つは土佐の赴任中に亡くなった子供へ想いです。鎮魂というか作中に何度も子供を失った辛さや嘆きを書いております。何かしら折につけて「あ~ここに我が子がいればなぁ~」と区切りの場面では必ず亡くなった我が子への想いを書き記しています。
単なるとりとめもない旅日記と違い作品が文学性を持っているのは日記全体がこういった一貫したテーマで書かれているからです。
もう一つは京都までの船旅の愚痴というか悪天候への不満です。土佐から京都までの船旅で貫之が費やした日数はおよそ2ヶ月です。日数にすればなんと55日もかかっています。
当時「京都~土佐」の移動に必要な日数は一般的に15日で移動できると言われていました。したがって貫之は40日近く余分に費やしていることになります。
実際に日記を見てみると風待ちに三日を費やしたり、更には海賊の出没に怯えるなどといった無粋な話も飛び出したりします。海賊に怯えるシーンは臨場感があり度々言及されています。
貫之は国司時代に海賊など無法者を取り締まっており、帰りの道中でそのお礼参りならぬ報復にあう可能性があったわけです。物騒な話ですね。
天気が悪くなると陸に上がり天候が回復を待っていたので「天候が悪くて船を出せない」→「天候が回復して次の目的地に行く」→「ここはとても風情ある場所だね。ああ、ここに亡くなった我が子がいればなぁ~」という様な話が繰り返しなされています。
4. 本人も嘆く宮廷人としての地位
最後はちょっとだけ貫之の人生の話にそれるのですが、現代では貫之は柿本人麻呂と並び評される歴史上最高の歌人の一人です。
そんな彼ですが歴史的評価と異なり彼自身は不遇な人生を送っていたそうです。何故かと言うと当時は歌人としての才能がそれほど出世へ直結しなかったからです。(まあその代わりモテモテだったと思いますが・・・・)
そもそもなぜ国司になって土佐に行ったのかというと「京都に残っていたい。でも貧しくてお金がない。だから国司になってお金を稼ぐんだ」という思惑があったからです。
60歳を過ぎた高齢で土佐にわざわざ赴任するのですから相当お金に困っていたのでしょう。土佐での任期中に子供が亡くなった話をしましたが、子供の将来のためにもお金が必要だったんだと思います。
実際に土佐日記の中でも「京都に早く戻りたい」とか「田舎は文化水準が低いな~」というような表現がみられ望郷の念を強く感じることができます。
ていうかぶっちゃけると現地の人達を田舎者としてかなり見下した表現があったりしてビミョーだったりします。ただ当時は身分制社会なのでそう思ってもしょうがないですよね。貫之からしたら不本意な生活を送っていたのだと思います。
現代の名声に比してみると官位は最終的に従五位と低く、貫之自身も自分が官位にめぐまれず従五位という中流貴族であることを自虐的に表現していたりするなど結構大変な生活を送っていたようです。
しかしそんな彼の土佐赴任が後世に残る珠玉の名作を産み出したというのはなんとも歴史の皮肉なものかもしれません。