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~ヒストリアイ~

難攻不落の名城 ~小田原城と惣構え~

投稿日:2015-04-15 更新日:

古代中国の歴史書「旧唐書・太宗本紀」に肉食の習慣の文章があります。

是の歳、関中饑ゆ。男女をひさぐ者有るに至る

意味は「餓えて男女を売買した」つまり食用として売られたと言うことです。

古代中国では肉食は当たり前なので本の中ではただ「太宗の統治の初期は飢饉に悩まされた。その証拠に人肉市場が出来た程だ」ということを書きたかっただけらしいですね。

中国で村というと邑という漢字をがあります。これは字をみるとわかるかと思いますが、丸まって囲まれた感じをイメージできませんか?つまり城壁の中に村があるということを表意しています。

どこの歴史でもそうですが、人は包囲された環境になると食事に困り人を食べるそうです。中国では攻城戦は日常茶飯事だったので、人を食べるということもいつの間にか日常になったのでしょうね。

幸い日本では邑という風ないわゆる城塞都市というものがありません。北京の紫禁城、トルコのコンスタンティノープルなどでは何万人の市民が城壁に囲まれて生活をしています。日本の城下町は、城の周りに住民が住んでいるのでそういった攻城戦の悲劇から解放されているのである意味幸せな歴史だと思います。

しかし、日本にもそういった街ごと全てが城壁で囲まれた城がなかったわけではありません。そういった城塞都市というのは「惣構え」という名前で呼ばれており歴史的に家康による「江戸城」秀吉による「大坂城」そして後北条氏による「小田原城」が有名です。

(現在の小田原城 以前は城内に象が住んでいた。JR小田原駅より徒歩10分)

小田原城は「籠城戦」を行い上杉謙信10万の軍勢をはねのけたという天下の名城です。そしてその名城が故が秀吉によって再三再四、帰順を促されても北条側は「秀吉、何する者ぞ!一戦も辞さぬ!!」という強気な態度に出ることになります。

(ちなみに謙信による包囲の際は秀吉包囲時と違いまだ惣構えが完成されておりませんでした。小田原城の時代ごとの築城を詳しく知りたい方は よみがえる日本の城 (2) 小田原城 を参考にしてください)

ちなみに城が堅牢であると同じような行動に出るらしく大坂の陣の豊臣氏も家康に対して一戦交えるならやってみろと強気な態度に出ております。いざとなったら城に籠れば大丈夫と言う絶対的な安心感がそうさせるのでしょうか。

小田原城は天下の名城でした。だからこそ秀吉の脅しにも屈服しなかった。総構えという日本の城の中では珍しい城塞都市をつくりあげたのであれば、それは致し方ないことなのかもしれません。

現在の小田原城は小田原駅から天守閣が見える駅前城郭であると共に、城内に象が住んでいるなど往年の名城の面影がありませんが、とにかく北条氏の頃の小田原城は天下の名城でした。

小田原城、大坂城、この2つのお城は全体で周囲を9キロにも渡り城壁で覆われていたといいます。正方形だとしても一辺が2キロ。広大な堀を巡らした外郭はさぞ壮観であったと思います。
(小田原城で配布しているパンフレットから クリックで拡大します)

↑の地図を見るとわかりますが、小田原城は南は海、東は酒匂川、久野川、そして水掘り。北から西は空堀や土塁ですが、木々が生い茂る山間部になっており大兵力を展開するのは難しい地形です。

結局この天下の名城は力業で攻略するにはあまりにも犠牲が大きすぎるため、地力で突破されませんでした。

さて、それでは小田原城はどうやって攻略されたのか。それは小田原の想定外の出来事によってでした。小田原城は謙信や信玄の包囲にも耐え抜いた名城ですが、北条側は秀吉を他の戦国大名と同じように考えていました。つまり包囲するといってもいずれ帰るだろうと。

戦国時代は兵隊は武士であっても半分農民であって米の手入れのために地元に帰らなければなりませんでした。また、基本的に兵糧は自己負担であるために、自分で持ち運びするということを考えても通常は1ヶ月もしたら包囲を解いて、諦めて帰国するというのが一般的でした。

つまり北条は「時間切れの判定勝ち。または引き分け」というプランを考えていました。また、小田原城は南側を海に面しており長期の包囲に対しても兵糧を海上から補給するという戦術をとることが期待できた為にそれも心理的に守備側にプラスに作用しました。

しかし秀吉は本気でした。自ら出兵しただけでなく水運を使い大坂から大規模に兵糧の輸送を実施しました。これで北条側は相手の「兵糧切れ」を期待することができなくなりました。また、逆に豊臣方の海軍によって海上封鎖をされた為に万が一の洋上補給も期待できなくなりました。

そして極めつけは一夜城。秀吉は一夜城がどうも好きらしいですが、小田原でも石垣山一夜城をつくります。これはありあわせの急造のお城ではなく、関東地方では初めて造られたと言われる本格的な石垣の城でした。

(石垣山一夜城から小田原城天守を望む 写真のど真ん中に天守閣が見えます)

これを築城中は木をつかって隠しており、完成した際に城の周りの木々を一気に伐採したので翌朝、突然一夜でお城が出来上がっている様に北条側から見えたと言うことです。その際、北条氏政が「秀吉は天狗か神か」と思わず呟いた話はあまりに有名です。

こうした小田原城や大坂城をみてもわかる通り、本格的に惣構えで防御された城を攻略する場合、自力で防衛線を突破するのは不可能ではないにしろ攻撃側が攻撃を躊躇するぐらいの損害を受けるということです。

日本では最終的に3つの本格的な惣構えの城は正攻法において突破されることはない、比類なき防御力を誇った城となりました。

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