Historiai

~ヒストリアイ~

東條英機の器の大きさ

投稿日:2024-09-07 更新日:

東條英機といえば開戦時の総理大臣に加え戦時中は陸軍大臣、参謀総長も兼任し絶大な権力を持った人物として知られています。また対外的にみてヒトラーやムッソリーニと同じく枢軸国の戦争指導者として彼らに肩を並べる存在でもあります。そんな権力の絶頂の中で起きた彼に関するエピソードを紹介することで東條英機がどんな人物であったのかをお伝えしたいと思います。


(東京裁判で証言台に立つ東條英機)

1. 竹槍事件

太平洋戦争も1944年に入ると防戦一方となり絶対国防圏が脅かされるようになります。サイパン島が陥落すると帝都の空襲や本土決戦が起きた場合に備え一般市民に対して竹槍訓練が開始されるようになりました。

この訓練に対して毎日新聞の新名丈夫記者が「竹槍なんてやっても意味がない。それより航空機の増産が必要だ!」という批判記事を書いたところそれが東條首相の目にとまり逆鱗に触れることになります。その結果なんと新名記者に対して「召集令状」が届くことになります。ちなみにこの時の新名記者の年齢は37歳でした。明らかな報復です。

新名記者は招集後に郷里の香川県丸亀の歩兵第12連隊に入隊したのですが、わざわざ中央から「南方の激戦地に送れ」という指示が来ていたそうです。ただ新名記者は日中戦争で従軍記者をしていた経験から香川の陸軍関係者らと顔見知りであったことや陸軍と対立していた海軍からの圧力などもあり3ヶ月程度で召集解除されます。なおその際に現地の連隊から「恐らく再度召集されるだろうから除隊後は召集されないようにできる限り早く国外へ出た方がいい」とアドバイスされます。

その連隊の予期した通り陸軍の中央は懲りずに新名記者を再召集をするのですが、その前に海軍がいち早く裏で手を回し海軍の従軍記者である海軍報道班員の一員とすることで陸軍が新名記者に手出しができないようにすることに成功します。

これが有名な竹槍事件と言われる事件です。もし仮に海軍が手を回さなければ多分再召集で激戦地送られて新名記者は玉砕していたと思います。個人的になんでそこまで意図的に戦死させようとしたのか理解不明です。執念深いですよね。連隊に入れて若い兵士と一緒に訓練させるだけでも報復としては十分だと思います。あと一記者の動向までいちいち気にしていてちょっと細かすぎて怖いです。

2. 松前工務局長の二等兵召集

同じような懲罰的な召集の被害者としてもう一人、松前重義氏を挙げることができます。松前重義は官僚だけでなく現在の東海大学の創設者でもあり戦後は国会議員として活躍するなど要職を歴任した人物です。

松前はその当時、逓信院工務局長という要職にありました。日本の敗戦が濃厚になっていたこの時期に「一刻も早く終戦すべきだ」と主張して高松宮殿下を説得したり、秘書を通じて木戸内大臣にも意見書を提出するなど積極的に終戦工作を行っていた人物でした。また中野正剛らの重臣会議にも裏から関与するなど目に余る終戦工作が東條の逆鱗に触れます。その結果松前は1944年7月22日に二等兵として招集されます。ちなみに松前はその当時43歳でした。新名記者が37歳でしたからそれより更に高齢ですね。

松前は新名記者と違い召集後に南方のマニラに送られますが、寺内司令官の配慮により特別待遇の軍の顧問となりました。南方軍としても皇族や軍高官と交友がある超大物のエリート官僚が「二等兵」として派遣されてきてビックリしたと思います。松前は現地の寺内の配慮により無事に戦争を生き延び戦後は国会議員として活躍しました。

3. 東條英機暗殺計画

1944年に入り戦局が悪化し「このまま東條が絶対的な権力を握っていたら日本は敗北する」と危惧した人々により東條英機暗殺が計画されます。これも東條のカリスマ性が故ですかね。

東條の暗殺計画は陸海軍で別々に複数計画されておりました。大人気です。陸軍では7月22日に決行する予定でありましたが、計画が事前に漏れて首謀者の津野田知重少佐が憲兵隊に逮捕されております。

海軍側の計画では海軍教育局や軍務局の中堅将校によって5月初旬には「海軍省近郊の路上で7月20日に東條を暗殺する」ということまで決定しておりました。

ただこれらの計画は実行する前に空中分解してしまいます。というのもサイパン島が早々に陥落し東條内閣はその責任をとる形で総辞職をしたからです。もしサイパン島が予想以上に粘っていたら彼は暗殺されていたかもしれません。

東條が亡くなれば犬猿の仲であった閑職に回された石原莞爾が復権する可能性があり、ただでさえややこしい戦局がより一層ややこしくなる場合もあります。ですがまあ何がどう転んでも日本の敗北は揺るがなかったでしょう。

4.むすび

以上が東條英機の首相就任中のエピソードです。個人的に思うのはこういった官僚として優秀な人物が究極の官僚組織である軍隊で平時において出世するのは分かります。ただ、戦争をするのであれば平時の体制そのままで戦争に突入したり、戦争突入後に戦時体制に交代をすることもなく長々と政権の座に居座り続けたのはどうなのかなと思います。

戦時と平時では明らかに求められる能力も人物としての評価も変わってきます。それにも関わらず戦時に入っても平時と同じ評価基準で人事を修正できなかったのはその当時の日本という国の国家としての限界であったと思います。

通常レタリング




-戦争・軍事

Copyright© Historiai , 2024 All Rights Reserved.