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~ヒストリアイ~

寄付の文化② 日本人はなぜ寄付をしたがらないのか

投稿日:2016-11-16 更新日:

◆日本とアメリカの寄付の違い・文化の違い

Wikipediaといえばインターネットにおける無料百科事典として誰もが知っていますが、最近そのウィキペディアを運営する財団が資金難になったことが話題となりました。。ウィキはアクセス数が世界で5番目を誇る人気サイトなのでそのサーバー代は当然のことながら巨額の費用となります。そしてその費用全てをユーザーからの善意による募金によって賄っています。

そんなウィキペディアですが日本は他国に比べて募金額が少ないのだそうです。前回アメリカ人と寄付をテーマにしてアメリカにおける寄付の文化について述べてみましたが、今回は日本の寄付の実態がどうなっているのかを見てみたいと思います。

2015年の寄付白書によるとアメリカの個人寄付の総額が27兆円に対して日本の個人寄付はわずか7409億円となっております。これはアメリカの27兆円のわずか2.7%の金額になります。


(日米英の個人寄付総額 寄付白書2015)

いくらなんでも少ないです。イギリスの1兆8000億円と比較しても少ない数値です。このデータを見ても日本には寄付という習慣が社会的に根付いてないようです。もちろんアメリカのように寄付をすることで節税効果が見込めることや、キリスト教における文化的な側面がないことも事実です。しかしなぜ日本には寄付の文化がないのでしょうか。

◆日本人が寄付をしない理由

海外に行くとよく街中で物乞いを見かけます。「お恵みを・・・」と言って人通りの多い歩道に座って小銭などを恵んでもらう乞食や浮浪者ですね。日本にも同じようにホームレスや浮浪者といった人達はいます。

一見すると世界中どこにでもいるホームレスですが、オティエ由美子さんはその著書の中でこの日本と海外のホームレスの違いについて以下のように驚くべき違いを上げています。

私たち日本人は何の疑問にも思わないけれれど、米英仏人が知ったらびっくりするにちがいないこと。それは「日本のホームレスが物乞いをしない」という事実です。彼らはしっかりと労働して稼いでいる。一方、米英仏のホームレスたちは物乞いを生業としています。

日本のホームレスが物乞いをしない理由は恐らく物乞いしても貰えないからです。日本には昔からこういった格言があります。

「働かざる者食うべからず」

日本のホームレスは街中を行き交う人々からお金を貰えると思っていないはずです。実際にホームレスですら落ちてる空き缶を集めて廃品回収業者に渡して幾らかの現金収入を得ています。つまりホームレスも働いているのです(笑)


(物乞いをするアメリカのホームレス)

なぜ恵んで貰えないかというとそれは日本という社会が非常に平等で単一な社会であるからです。身体障害者で動けないなら別ですが、日本人の中で「働けるのに働かないホームレスの人達にはお金を上げる必要がない」と思っているのでしょう。貧困は「個人の努力不足や怠惰なものである」と考えているからです。

一方の欧米では貧困が社会の階層によって生み出される構造的なものでもあります。貧困層の人々が決して怠け者であるからというわけではないのです。

アメリカを例に取りましょう。アメリカでは19世紀まで黒人は奴隷制の下で生活していました。そして、奴隷制が廃止され平等になった今日と言えども人種的な壁があります。

確かに公的な差別は無くなりましたが、目に見えない形での人種差別により南部などでは条件の良い仕事に就労することができません。それどころか就労の機会の他に教育面においても平等なチャンスを与えられておりません。

そういった本人の努力に関わらない社会的な不平等による構造的な貧困が発生します。どんなに一生懸命働いてもそこから抜け出すことができないのです。

日本でもこういった構造的な貧困の問題が発生しているのであればもう少し寄付をする人が増えることでしょう。働かざる者食うべからずということは日本の場合、ひとえに「貧しさの原因は社会でなく個人にありますよ」ということを如実に表した格言であると思います。

前述のオティエ由美子さんも日本社会について著書内で同じ様な分析をしています。

日本社会は基本的にみんな「働かざる者喰うべからず」と思っているし「人に頼るな、自分でなせば叶う」的な自助努力が重視される社会です。自分に厳しく、他人にもまた厳しいのが日本の社会と言えるかもしれません。

つまり日本人が寄付をしないのは、ホームレスが自分達が所属しているのと変わらない同じ世界・同じ階層・同じ社会に属していると考えているからです。決して彼らが社会の構造的な問題による不平等によって貧困になったと考えていないからです。

◆日本では誰が社会的弱者を救済するのか

それでは日本の場合一体誰が社会的な弱者を救済するのでしょうか。日本では社会的弱者に対しての救済方法が「個人」ではなく集団や組織、そして公的な機関などの「共同体」が行っているのではないかと思います。

例えば戦前の明治や大正時代、村や町で飛び抜けて優秀な農家の子が貧しくて進学できない場合、名主や庄屋そして村長などの地方の名士が両親に代わり進学費用を捻出しました。彼らが村で神童と呼ばれた優秀な子供を中学校や高校に通学するために必要な費用を負担するなど地方の名士が現在における奨学金の役割を果たしていました。

有名な例としては1000円札の肖像にもなっている野口英世です。彼は貧農の生まれにも関わらず小林先生に学費を工面してもらい高等小学校に通うことができました。


(小林栄先生 どちらかと言うとこの人の方がお札にふさわしい)

一般にこういった援助を受ける場合、その子供は自分の将来の為だけでなく村の代表として村の威信を懸けて勉学に励まなければなりませんでした。ですから村の希望の星として当人は相当なプレッシャーを常に背負っていました。

日本社会は非常に狭い世界なために、どんな日本人も個人で必ずと断言できるほど何かしらの組織に所属しています。その組織とは一番小さい単位の家族から親類、そして昔であれば自分が住んでる集落や村。また、近年で言えば会社などの生活や運命を共にする共同体集団です。

そしてその共同体の中で他人に迷惑をかけない、身勝手な振る舞いを慎む、責任ある行動をとる、といったことが求められます。これはその個人が所属している組織への掟です。個人の権利の尊重より組織の秩序を乱さないことが優先されます。私より公が優先される社会です。組織に迷惑をかけてはなりません。

組織への忠誠が求められ個人の権利といった人権が制限される不都合がありますが、その代わりに個人に対して何かしらの問題が発生した場合、組織は責任を持ってその個人の面倒をみる必要があります。

その為本来では私的であったはずの組織は所属してるメンバー達にとっては公的な意味合いを持つ組織へと変貌するのです。そして組織に対して最終的に血縁関係のような家族的な繋がりを持つに至ります。

◆所属している共同体と組織の掟が世の中の全てになります

共同体が公的な性格を帯びた良い具体例が昭和の会社です。年功序列や終身雇用制度などは昭和時代の会社よく見られた風景でした。会社は社員を採用したら定年まで責任をもって面倒をみる社会関係となりました。一旦組織に所属したら共同体(会社)に忠誠を誓う(転職しない)代わりに共同体はメンバー一人一人を責任を持って面倒をみる(解雇しない)システムです。その為、昭和時代のサラリーマンにとって会社は人生のある意味全てであり、会社の外のことはどうでもいいことでありました。

堺屋太一さんの文明を解く 東大講義録の中ではこの会社に勤めた縁によって出来上がる公的な関係を「職縁社会」と名付け、この職縁社会の会社人間が残酷でいかに酷いものであるかを述べています。少し引用してみます。

今の職縁社会は酷いものです。他所の会社の人はどうでもいいと言う様な激しい区別が行われている。自分の会社の人に好かれれば、他の人にはどんな嫌われてもいいともいう。だから「会社人間」はおそろしく残酷なことを平気でしますよね。

取引先の中小企業が傾いたときの取り立てなどな酷いものです。正義感をもって社会的残虐をやります。「そんなことをしたら長年あなたの会社と取引のあった会社の社長と家族は飢えるでしょう。」というと「いや、これは我が社の規則だから、気の毒ながら住居も自動車も差し押さえるのは当然です」という。これが職場というコミュニティですよね。

この中では会社といった自分が所属するコミュニティ(共同体)が何よりも優先されるべきことであり、所属する共同体の外のことには恐ろしく無関心であることが述べられています。つまり、日本人が他人を助けないのは不特定多数の人々が自分と違うコミュニティ(共同体)の人であり、彼らに対して無関心であり完全に視野に入っていないからです。

この無関心さは人間が目の前で死にそうであっても助けないほど徹底したものであり、共同体の外の人が獣同然の扱いを受けています。小室直樹、山本七平の共著「日本教の社会学」の中では同じく共同体化した企業がいかに組織の外の人達に対して非人道的な行為を行ったのかを示すエピソードがあります。

例えば公害問題なんてそうです。つまり、企業がこんなことをすれば公害が出るってことは経営者も従業員もみんなずーっと前からわかってたんですよ。しかし、彼らにとって規範が存在するのは共同体内部だけでしょう。だから企業内の人間関係や企業が儲けることは非常に重要だけれども、その結果、巡り巡って企業外の民が死のうがくたばろうが知った事か。まさにその論理なんですよね。

三菱重工の爆破事件のときのことです。倒れている人に知らんぷりしている場合と駆け寄る場合があるが、駆け寄るのは自分の会社の人間に限っている。その隣の人がどんなに息絶えだえであってもそっちはみんな知らんぷり。自分の会社の人間が人間なんですよ。ああいう時になると、表にはっきりと出てくるんです、それが。

だから簡単に言いますと、共同体の中にいる人間だけが人間なんです。共同体の外の人間というのは、獣と同じなんですよ

同じような内容ですが、隣に倒れていて死にそうな人ですら「自分の会社の社員じゃないから」という理由なだけで助けずに見捨ててしまいます。ですから全くの他人である共同体(ムラ)の外の住人であるホームレスなどに日本人が寄付をするという発想自体が思い浮かばないのです。そしてホームレスも自分が彼らと同じ共同体のメンバーでないことが分かっているからこそ最初から物乞いなどをしないのです。

逆に言えば同じ会社など共同体の一員であれば、組織はメンバーの為に先程述べたように終身雇用などの手厚い保護をしてくれます。メンバーが共同体内での論理を何よりも優先するのはこういう困った時や問題が発生した際に共同体が自分を助けてくれるからでもあります。

この様に日本では個人が何かしらの集団に所属して共同体のために貢献する代わりに何か合った際には自分が所属する共同体が面倒をみてくれるといった社会互助的な役割を果たしていました。

また仮に組織内のメンバーを放っておけば他の共同体に迷惑をかけたり苦情が出るために、共同体のメンバーを助けなければならないという側面もあります。共同体同士でも迷惑を懸けてはならないという気遣いがお互いにあるのです。

ですから他人、つまり自分が所属する共同体外の人が困っていても「自分が面倒を見る必要はないし、その責任がない。彼が所属している共同体が彼を助けるであろう」と思うので救いの手を差し伸べること無く冷淡な態度になるのだと思います。

◆共同体に所属してない人の救済は?

それではこういった何かしらの共同体に所属していない人達はどうなるのでしょうか。例えば天涯孤独で何かしらの理由で働くことができない場合、多くの日本人が所属する家族や会社といった共同体に所属していないので助けてくれる人がいません。

そういった場合その人が日本人であれば日本列島最大の組織である「日本国」という共同体が最終的に責任をもって助けてくれます。例えば何らかの事情で働けなければ政府が生活保護という形で責任を取って助けてくれます。また、障害者であれば障害者手帳を支給されて税金の免除など様々な政府の支援を受けられます。(その代わり普通に働ける人には日本国という巨悪のヤクザ組織が税金という名のみかじめ料をビシバシと取り立てにきます。恐ろしい!)

ですから冒頭にあげた「ウィキペディアへの日本人の寄付金が少ないのをどうすべきであるか?」という問題を先程までの話を踏まえて私なりに解決策を考えてみます。

ウィキペディアは日本のどの共同体にも所属していません。そして日本には述べてきた通りに個人が個人を救済するという文化がありません。ですから募金活動を日本人一人一人の「個人の善意」にお願いするのはあまり良い方法とは言えません。そして日本ではこういった救済対象が共同体から漏れている場合は自治体や政府など公的機関が支援するというセーフティーネットが作られています。

ですから変な話ですが、他の国と比較して日本国民が本来ウィキペディアに募金すべきである適切な金額を政府が税金から寄付といった形で支払うのが現実的に日本の文化では一番マッチした解決方法ではないかと思います。(この場合、米国と英国の寄付額から比較して3~5億円前後を税金から支払えば丁度いい感じじになるかと思います。)

◆むすびとして、今後どうしていくべきか

以上を踏まえてみると日本で寄付が盛んでないのは貧困が社会的な不平等によりシステム化された構造的なものでなく、単に個人の努力が足りない結果であると思われているために寄付をしようとする気持ちにならないこと。

また貧困など社会的弱者の救済システムがそれらの人々が所属している共同体によってに行われているために、自分が知らない他人(ムラの外の人)への個人的な寄付といった習慣がないからであるといえるかと思います。

決して日本人がケチであるからとか、弱者に優しくないとかそういうことではないんですね。野口英世の小林先生の様に個人が私財を投げ打って他人を援助することも当たり前ですし、政府も「国民健康保険」という世界に誇れる制度をつくり、日本人であれば誰でも低額で医療を受けれる環境を整備しております。

ただし、だからといって日本人の個人間における小さな善意や優したといったものが欧米と比較して同じ水準にあるかというと一概には言えないと思いますね。

先程紹介した「日本教の社会学」でも山本さんが日本人こそ「小さな親切運動」をもっと盛んにすべきであると提唱していました。例えば学食などで10人以上が座われる横に長いテーブルの隅にあるソースを使いたい場合「ソースとって下さい」と頼むと米国では何人かの知らない人達を経由して当たり前の様にテーブルの隅から隅にソースが届きます。

また混雑したエレベーターでは新しく入ってきた人に対してボタンの近くに立っている人が「何階ですか?」と普通に尋ねてきたり、逆に入って来た人が「何階お願いします」と頼むのは当たり前のことだと紹介しております。

日本人であれば公共の場所は共同体の外の他人であるのでこういった親切をお願いするのは非常に気を遣わかければなりませんし、小さな好意をお願いすることができない人も少なからずいるのではないと思います。

これらのことを踏まえれば日本ではボランティアやチャリティーなど善意に因る第三者への好意や救済などの寄付はもっと行われてもいいはずですし、欧米人の慈善事業への行動の源泉にキリスト教による宗教的なものがあるといっても、優れているものは積極的に取り入れるべきです。そして障害者への配慮や社会的弱者への援助などを金銭面だけでなくもっと公的にも私的にも積極的に支援が行われるべきだと思います。

一例を上げてみましょう。私がボストンに住んでいた頃地下鉄に乗った時です。席が9割方殆ど乗客で埋まっている感じですが、逆に立っている人はいない感じの混み具合でした。

そして電車が次の駅に到着しドアが開くと視覚障害者の人が車内に入ってきました。「あ、視覚障害者だ」私が思ったその瞬間、車内に座っていた全ての人が「ズバっ」と一斉に同時に立ち上がったのです。

ゆうに10名以上の人が我を争うように「あ、席を譲らないと」と立ち上がったのです。条件反射的に人々が勢い良く立ち上がった瞬間はある意味壮観な風景でした。

日本では同じ状況の時にどうなるのか。そして日本に滞在している外国の人がそれを見てどう思うのか。日本も寄付の文化の根底に流れる見ず知らずの他人への小さな善意を見習って欲しいと思います。

<参考文献>
イギリス、日本、フランス、アメリカ、全部住んでみた私の結論。日本が一番暮らしやすい国でした。』オティエ由美子 (著)

東大講義録 文明を解くII―知価社会の構造分析』堺屋 太一 (著)

日本教の社会学』小室 直樹 (著), 山本 七平 (著)

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